しあわせを言葉にすると[言葉の切れ端011]

「しあわせを描写してみてよ」と妻が言った。
ぼくが小説を書くことを仕事にするようになってからというもの、彼女はよくこういった無茶振りをする。

「うーん、そうだな」妻のリクエストに備えて、僕はすでに抽象的形容詞の長いリストとそれらの描写を用意していたが、真剣に考えるふりをした。

「今日は土曜日の朝で、ぼくと君は揃って寝坊をした。冷蔵庫には牛乳と卵とパンケーキミックスしかない」
彼女は目をつむって聞いている。

「ぼくの作るパンケーキは薄すぎるから、と君がパンケーキを焼いてくれるあいだ、ぼくは布団を太陽の当たるところに干す。表面にバターの溶けたパンケーキを君が二枚、ぼくが三枚食べて、最後の一枚を押し付け合いながら半分ずつ食べる。
それから新しいコーヒーを淹れて、お互いが見えるところに座って違う本を読むんだ。今日は土曜日で、おまけに月曜日は祝日だ。窓の外では、洗濯物が風に揺れている。これが”しあわせ”じゃないなら、そんなものはこの世に存在しないということになる」

「あなたそれじゃ、サラリーマンの時と一緒じゃない」

「そんなもんだよ」
僕が言うと、妻が幸せそうに笑った。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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