死んだ自分自身を思って泣いているのだ[言葉の切れ端059]

電話の向こうで、彼女はやはり泣いていた。
「なんて間が悪いの」彼女は怒って泣く。
昨日、彼女の好きな作家が死んだ。ノーベル賞は獲らずじまいだったが、海外でもよく名の知られた、日本を代表する作家だった。
彼女は彼の朗読会にも行かなかったし、彼のラジオも聞かなかった。彼の作品を読んでいるという事実さえ、ほとんど誰にも話さなかった。
その代わりに、血管のまわりに彼の文章が刻み込まれるくらい、彼の作品を繰り返し読んだ。言うなれば彼女は、その作家が意図せず生んだ副産物のようなものだった。
それが彼女の存在全体のうちどれくらいの比率を占めていたかはわからないが、「好きな作家」という領域は超えていただろう。
つまり、昨日死んだのは彼女自身であり、少なくとも彼女の一部だったのだ。僕はそれが致命的事態ではないことを祈りながら、電話をかけた。
「一人になりたいのよ。もうこれからずっと」
「わかったよ」そう言って僕は優しく、音も立てずに受話器を置いた。
彼女の希望通り、僕は今すぐ何もかも放り出して、半分だけアイロンのかかったシャツを着て、彼女のところに駆けつけるだろう。
それが僕らのやり方だった。
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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