売れない良書[言葉の切れ端079]

「売れない良書はない。本は認識されてはじめて良書になる。小寺さんはそうおっしゃりたいんですね?」私は目の前に座る男の言葉を代弁する。

「端的に言えば」男は慇懃無礼にうなずく。

「ねえ、僕たちいっそ、新しい本を作るのなんてやめにしませんか」

私のその言葉に、男は目を見開いて動きを停止する。それがまさに、男が私から引き出そうとしていた言葉だったのかも知れない。

そこで私は彼を後押しするため、それらしい言葉を並べ立ててみる。

「だって、今本屋で売れている本をご覧なさいよ。あなたほどの人が、本心から良書だなんて言えるものが売り上げランキングに一冊でも入っていますか? 彼らはわかりやすいあるあるを体よく並べ立てて、それが共感という言葉でセールスされるんです。僕たちの無意識をえぐったり、脳みその端っこにも浮かばないような世界を見せてくれる作家はもういない。彼らは何十年か前の海外にいて、もう絶滅してしまったんですよ。今の僕らにできることと言えば、彼らの言葉の現代語訳くらいなものだけれど、残念ながらそれが理解できる読者ももう死に絶えてしまった。出版業界はある意味では本当に終わったんでしょうね」

「先生は筆を置かれるおつもりですか」男の態度は今ではずっと軟化している。

「僕にはもうあなたの言う良書を作る力がない。星を見る仕事に戻りますよ」

私は男の分のコーヒー代と書きかけの原稿を残し、席を立った。

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍、ペーパーバック(紙の書籍でお届け。POD=プリントオンデマンドを利用)
販売価格:電子書籍450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)、ペーパーバック2,420円

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。