美しく尚且つすぐに役に立つ文章[言葉の切れ端086]

「それで、君の担当作家が書く文章は読者に一体どんな価値がある? 何の役に立つ? 京都でいちばん美味しい飲み屋への行き方、安い冷蔵庫の買い方、仮想通貨の扱い方、フォロワーの増やし方。読者のニーズ、シーズ、こういうのはもうコンサルタントだけのオナニー用語ではなくなっているんだよ」

新進気鋭の本屋。

ツイッターで見つけた話題の本屋に、飛行機とレンタカーで辿り着いた私を迎えたのは、本屋ではなく経営者だった。

「役に立つ文章は退屈です。方、方、方。一通りにしか解釈できない本は美しくありません」私はまだ諦めない。

「美しい文章は、役には立たないかもしれない。でも生きる理由にはなる。うちの作家たちはそういう文章を書くんです」

「美しい文章で尚且つ役に立つ文章というのはないの」

それは、二次元空間上に互いに垂直に交わる直線を三本引けというようなものだ、という言葉は飲み込んだ。

「たしかに良く売れる本ではないでしょうね。お時間を取って失礼しました」私はわざと手を付けなかったコーヒーを置いて、席を立つ。

「一冊ずつ、置きませんか」隣にいた空色のエプロンの男が言う。「それでも全部で十二冊でしょう。僕がダイエットに成功したら置けますよ。ね?」

「あ、ありがうございます」私は立ったまま言う。

「ご自由に」経営者の男は鼻から息を吐いて手を首の後ろに回した。

私はまだ諦めない。

立ったまま冷たいコーヒーを一気に飲み、私は靴ずれした足に力を入れる。

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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