生まれてきたくなんてなかったとしても[言葉の切れ端107]

彼女の薬指が私の額に触れている。耳を失くした私に言葉を伝えるとき、彼女がするやり方だ。
「生まれてきたくなんてなかったとしても」言葉は音という形をとらずに、私に届けられる。
「母親を恨んでもなんにもならないよ。彼女たちは温かいトンネルの出口でしかないんだから。きみに言いたいのはね、もう、生まれてよかったといつか思えるようになるために生きなくていいんだということ。これまでずいぶん、それにエネルギーを費やしてきたね」
悲しくなんかないのに、私の目から涙がこぼれる。
「たとえばそのエネルギーの十分の一でも、現実生活に向けてごらん。人の生をただ生きることがいかに簡単か、よくわかる。もう戦うべき相手はいない。きみはこれから五キロの重石とともに生きていくことになるけれど、三十キロの米袋を抱えて二重跳びを続ける暮らしからは抜けられる。どうだい、悪くない話だろう」
私はまだ目を開けない。
彼女が私の一部を携えていなくなったことを確かめるには、もう少しだけ時間が要る。
書いた人
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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著者:田中千尋
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