オンラインの文字のやり取りとヒトラーの関係性[言葉の切れ端134]

三年目の社内研修で私がその講座を選んだのは、今の会社を辞めてフリーランスになりたかったという不純な動機もあった。まだ具体的な形を取っていたわけではなかったけれど、その淡い願望は現実の緩衝材としてうまく機能していたのだ。

「ヒトラーはより効率的に人を殺す方法として、満員の部屋に毒ガスを送り込む方法を思いつきました。密度で言うと、今みなさんがいるこの部屋の五倍はあったでしょう」

オンラインビジネスチャットツールの講師としてそこにいる元プロ社交ダンサー(彼女自身が冒頭にそう説明したのだ)は、ヒトラーを思い起こさせるイラストをめいっぱい貼り付けたスライドの前で話した。

「想像してみてください。あなたがヒトラーの忠実な部下だとして、100人を部屋に押し込め、彼らをじわじわと殺すガスを部屋に送り込むためのボタンを押し、いくらかあとに自分が手を下した彼らの死体を部屋から運び出す。あなたは正気を保っていられますか?」

彼女はどういうわけか私の目を見て話し続けた。その目はまるで私を非難しているようにも見え、私は小さく首を横に振る。

「ヒトラーがあれほどのことを成し遂げたのは、彼が人というものの弱さを知り尽くしていたからです。ヒトラーは、すべての工程を細かく分割した。罪悪感をほとんど感じなくて済むほどに。その協同作業の結果、党員はネジ一本を巻くだけで人を殺すことができるようになった。分割は人をどこまでも冷酷にする」

間をおいて、彼女が手元のリモコンを操作する。カラフルなビジネスチャットツールのアイコンがいくつも現れ、彼女はおそらく恣意的に笑みを浮かべる。

「オンラインで文字をやり取りするというのは、コミュニケーションの分割なのです。つまり」

正午を知らせるチャイムが鳴る。にわかに部屋の中が落ち着きを失い始める。

「メールでもSNSでも同じことですが、オンラインの文字のやり取りをコミュニケーションの主軸に置こうとするとき、私たちはとても注意しなくてはなりません。匿名性ではなく、オンラインの文字であるというだけで人はとても冷酷になれるのです。そこでは受信する係と考える係、文字を打ち込む係と送信ボタンを押す係、それらが分割されているのです。今日帰りに電車の中でスマートフォンに文字を打ち込むとき、顔を上げて扉に映った自分の顔を見てみてください。それが私が皆さんにお伝えしたい最後のことです」

ああ、今日の昼休みはもうあと四十分しかない。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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