健康であるということのリスク[言葉の切れ端144]

「生まれてこのかた風邪ひとつひいたことがないだって?」

むかむかするほど暖房のきいた検診バスで、内科医の一人がぼくの言葉に大げさに反応した。

「はい、至って健康です。健康という職業がないことが惜しいくらいですよ」ぼくは上半身裸の状態で胸にコードをつながれていることをなんとか意識しまいとしていた。

「それはいかん。風邪をひくというのは、人間にとって免疫力を鍛えるために必要不可欠なプロセスだ。その経験がないということがどういうことかわかるかね? 君はいかなる細菌やウイルスに対しても無防備であるということだ」

「なるほど」

「動かないで。ゆっくり息をして」内科医はひどく痩せていた。

「まだ名前のついていないものを含めれば」彼は手元の精密機械から目を離さず続ける。

「我々は皆残らず何かしらの病に分類されるんだよ。パイの取り合いだな。考えてもみなさい。医学が病気を克服されるためにあるとして、尚且つ医学が存続するためには、新しい病を発明するしかない。そうだろう」

ぼくは黙って小さくうなずいた。たぶんこのコードを通じて、ぼくは病気を流し込まれているのだ。それはぼくにとって未知なる冒険の予感に満ちた希望にも思われた。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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