小説家にとってのエッセイの立ち位置とは『村上ラヂオ2』村上春樹

『村上ラヂオ』の続きもの

「村上ラヂオ」というのは、雑誌「アンアン」に村上春樹が連載していたエッセイだそうで。
村上春樹は、小説と同じくらい、そのエッセイも人気がある。
本人はあくまで小説を本業としていて、エッセイはどちらかというと肩の力を抜いて取り組むものみたいです。

けれど、彼の視点から見る世界は、どんなに平凡な日常でもすてきに映る。
ほんの少しスパイスの効いた、とりとめのないこと。
何を押し付けるでもなく、淡々と日常について、そしてそれに対して考えたことを文字にしている。

読んでいると、机の前でうーんと出来事を思い出しながらキーボードを叩く村上春樹が思い浮かぶような。
ああそうそう、そう言えばこんなことがあって、うーん、改めてこんな風に文章にしてみると、こういうことなんですかね、どうでしょうか。と言ったふうな、誰に何を問うでもないゆるさ。

読む方にしても、彼の小説を読む時とエッセイを読む時とでは、”構え方”のようなものが全然違ってくる。
エッセイにしても、『遠い太鼓』だとか、『辺境・近境』だとか、『やがて哀しき外国語』だとか、『走ることについて語るときに僕の語ること』みたいな、海外にいる時に著者が感じる日本人性や、彼の生き方を文章にしたようなエッセイはわりにずっしりくる。
一方で、この本みたいな「そう言えばこういうことってありますよね、どうでもいいと言えばどうでもいいんだけれど」という語り口のエッセイは、ちょっと怪我をした時に貼る小さな絆創膏みたいに、ささやかな癒やしを与えてくれる。

彼の感じ方にシンパシーを感じていて、それでいてなかなかそれを素直に出せずに生きているというのは少なからずいると思う。
それを気持ちよく、軽快に文章に落としてくれる彼の存在は、やはりわたしたちにとって貴重な存在ですね。

僕にはいろいろと苦手なものがあるけれど、中でも苦手なのがセレモニーとスピーチとパーティーです。この三つが一度に重なったりすると――往々にして重なる――もう悪夢みたいなものになってしまう。 P24

同感です。パーティーやらイベントのようなものからは、できるだけ距離を置くことにしています。というか、最近仕事で弱っているので、そうしないと保たないという方が正しいのですが。

そういう風に考えると、いろんな体型の、いろんな顔つきの、いろんな考え方をする人たちが適当に混じり合い、適当にゆるく生きているというのが、僕らの精神にとっていちばん望ましいのかなと思う。 P31

たしかに変わっているかもしれないけれど、あなただって変わっている。そもそも、普通ってなんなのだ?
誰もがあんたみたいになったら、世の中気持ち悪いよ。「普通」を装う人に言いたくなることがある。

人と人との出会いには「また今度」はないんだと思いつつ、僕らは生きて行かなくてはならないのかもしれない。 P68

河合隼雄氏の死を前に書かれた一節。目の前の人にもう会えないかもしれない、なんてわたしたちは普段考えずに生きていますよね。

考えてみれば、携帯電話がなかった時代には、人は携帯電話がないことをとくに不便には思わなかったような気がする。携帯電話がないというのが通常の状態だったんだから。もしビールの栓抜きがなかったら、それはずいぶん不便に思ったことだろうが。
じゃあ、携帯なんてなくてもいいのか、と問われると、僕にもそこまで断言する自信はない。あればもちろん便利だけど、ないときにはなくてもとくに不自由がなかったよな、としか言いようがない。文明というのはなんだか不思議なものですね。新しい自由をひとつつくり出しながら、ひとつ便利になっていく。 P142

これはこの本でわたしがもっとも共感した一節。
なくてもとくに不自由なくやってこれたものを、あくせく働いて「便利」をつくり出し、それなしの状態を「不自由」にしてしまう魔法というのを文明は持っている。
いったいわたしたちは、何を目指して生きているのだろう?
不自由を獲得するために、文明の機器をひとつ、またひとつと発明し、我々自身はひとつ後退している気がしないでもない。
やっぱり自由ってやつは、人間の手に余るのだろうか。
『カラマーゾフの兄弟(上)/ドストエフスキー』でも触れたけれど。
自由、じゆう。

この人生においてこれまで、本当に悲しい思いをしたことが何度かある。それを通過することによって、体の仕組みがあちこちで変化してしまうくらいきつい出来事。言うまでもないことだけれど、無傷で人生をくぐり抜けることなんて誰にもできない。でもそのたびにそこには何か特別の音楽があった。(中略)
小説にもまた同じような機能がそなわっている。心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、同時にまたもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだということを、それらは教えてくれる。 P219

現代における小説の役割はここにある、とわたしは信じたい。
わたしが何かを感じ、特にとてつもなく悲しい何かを感じ、そして「何かを伝えよう」とする場合に、自分でもその実態がよくわからないことがある。
「自分でわかっていないものを他人に伝えることは不可能である」と言われるかもしれない。
確かにその通りで、けれど「自分でもよくわからないけれど、とにかくこの得体のしれないものを外に出して見てみなければならない」と思って小説という形に出してみることができたとすれば、その得体のしれないものを得体のしれないままで、深いところで誰かと共有できるんじゃないかと思うのです。
そしてその体験こそが、「物語が人を癒やす」ということではないかと。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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