人はなぜ旅に出るのか。『ラオスにいったい何があるというんですか?/村上春樹』

(※この記事には、本の引用を含みます)

人というものには、多かれ少なかれある種の「ポリシー」みたいなものがあると思う。
その強弱や範囲は、その人の性格や環境に大きく左右されるはずだけれど、それでもひとつくらいはそういうものがあってもいいんじゃないかと思う。

例えば、外食はしない、とか。
例えば、朝はコーヒーと食パンと温泉卵、とか。
例えば、バスタオルは毎日洗濯する、とか。
例えば、冬場のシャンプーは2日に一回、とか。

そして、それらの「ポリシー」には、その人の裁量によって「絶対に」だとか、「基本的には」だとか、「概ね」だとか、「できる範囲で」だとか、「気が向いたら」という枕詞がつくことになる。

それはわたしの場合、
例えば、本は文庫本になるのを待つ、とか。

枕詞は、「基本的には」だろうか。

つまり、前置きが長くなってしまうのがわたしの良くないところなのだけれど、ひとことで言うと、『ラオスにいったい何があるというんですか?』を単行本で購入してしまった、ということである。
本屋さんに行く前は、そして棚に並ぶその本の表紙を見るまでは決してそんなつもりはなかったし、わたしは自他ともに認める「意志の固い人間」に分類されるたちだと思う。
それでも、不本意にも――なんて言うと村上氏に失礼だが、気づけばこの本を抱えてレジに並ぶ羽目になる。

そして、これこそがネットではなく本屋さんで本を買うことのいいところなんだと思う。

「ラオスにいったい何があるというのだろう。村上春樹的観点から見た、ラオスとは、いったいどのような国なのだろう」

地理なんて中学生の頃にとっくに諦めたわたしは、ラオスがどこにあるのかも知らないでこう思う。

そして、礼儀正しく家の本棚で待機する、「読まれることを待つ本たち(それらは通称「積ん読」と呼ばれる)」をさっさと通りぬけ、特別待遇で真っ先にページを開かれる。
もう少し本棚に飾っておこうか、いや、待てるわけないだろう。

それは、12月25日の夜中にふと目覚めて、朝まで待てずにクリスマスのプレゼントの包みを開ける気持ちに、お年玉の袋をもらったそばから開ける気持ちに、駆け引きなんてできない恋の気持ちに、少し似ている。

この本は、村上春樹がこの二十年くらいぽつぽつと雑誌で発表してきた、様々な国の短い滞在記をひとまとめにしたもの。
彼自身があとがきでも語っているように、最近この人はあまり旅行記を出していない。

僕は1980年代から2000年代にかけて、『遠い太鼓』『雨天炎天』『辺境・近境』『やがて哀しき外国語』『うずまき猫のみつけかた』『シドニー!』といったような紀行文的な、あるいは海外滞在記的な本をわりに出していたので、「うーん、旅行記はしばらくはもういいか」みたいな感じになり、ある時点からあまり旅行についての記事を書かなくなってしまいました。
「この旅行についての記事をかかなくちゃ」と思いながら旅をしているのも、けっこう緊張し、疲れちゃうものだからです。P250

ここにもあるとおり、今回の本は今までの彼の本に比べて文章のテイストが違う。ような気がする。
そこには、「歳を重ねた」村上春樹が存在する。
旅行の仕方も、若い頃のそれのようにワイルドではないし、感じ方も、どこか包容力のようなものが増したような気さえする。
もっとヴィヴィッドな、生の滞在体験を体で味わいたいなら、上記の旅行記を読んだほうが良いだろうと思う。

けれど、そこには紛れもなく「村上春樹」がいる。
そのことにわたしは安堵し、同時に「村上春樹が歳を重ねたことによって、何かわたしが感じている彼へのシンパシーのようなものが損なわれてしまうのではないか」と自分が密かに恐れていたことに気付く。

何はともあれ、河までやってきて、ロングフェロウ・ブリッジあたりの遊歩道を走り始めると、僕は馴染みの場所に戻ってきたような、ほっとした気持ちになる。この「ほっとした気持ち」というのをもう少し長い文章で、漢字を使って細かく解説すると、「ああ、僕という人間は、こうして基本的にはとくに意味もなく、――でも実際にはいやおうなく端末的なエゴを抱えて――生きとし生きている多くの非合理で微小で雑多なもののひとつとして、ここにあるのだ」というようなことを、ふと実感するわけだ。でもそういうことをいちいち言い出すと話が長くなるので、ごく簡単に言えば、ただ「ほっとした気持ち」になる。 P14

↑こんなふうに、とりとめのないことを、誰かに聞かれたら笑われてしまうような、けれどきっと世の中のある一定数の人は考えずにはいられないようなことをさらりと書いてしまうところとか。

実を言えば、自分では今でもまだ「若手作家」みたいな気がしているんだけど、もちろんそんなことはない。時間は経過し、当然のことながら僕はそのぶん年齢を重ねた。なんといっても避けがたい経過だ。でも灯台の草の上に座って、まわりの世界の音に耳を澄ませていると、あの当時から僕自身の気持ちはそれほど変化していないみたいにも感じられる。あるいはうまく成長できなかった、というだけのことかもしれないけれど。 P106

↑自分の年齢の変化を受け容れているようで、若いところとか。

ルアンプラバンで歩いてのんびり寺院を巡りながら、ひとつ気がついたことがある。それは「普段(日本で暮らしているとき)僕らはあまりきちんとものを見てはいなかったんだな」ということだ。 P165

↑それでも、模範的な旅の者みたいなことを考えるところとか。

そんなわけで、船のデッキから鯨たちを見物しながら、僕は少なからず哲学的省察に耽らされることになる。宇宙的見地から見て、彼らの生き方と僕らの生き方との間に、本質的に、どれほどの差があるというのか? ボストンの沖合で無心に鰯の群れを追うことと、マーラーの九番を集中して聴くことの間に、どれほどの意味の違いがあるだろう? すべてはひとつのビッグバンと、もうひとつのビッグバンとの間の、はかない一炊の夢に過ぎないのではないか。 P187

↑それなのに、そんな「宇宙的見地」なんてものを持っているのに、やはり「個」という小さな存在を生きるしかないことや。

そんな文章たちが、心をくすぐる。
さて、ここにはあえて掲載しなかったけれど、「いったい何がラオスにあるというのか?」という質問を、乗り継ぎの空港でヴェトナム人に投げかけられる。
それに対して村上春樹がどう感じるのか。
わたしはどう感じるのか。
あなたはどう感じるのか?

それは、たぶんわたしがここでいうことじゃないような気がする。たぶん。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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