パンパースCMを見て。親になるということは、「選択」なのか

「MOM’S 1ST BIRTHDAY ママも1歳、おめでとう。」

子供の1歳の誕生日に、父親から母親にサプライズをするという
パンパースのCMが話題になっている。

母親というのは、世の中に数えきれないほどいる。

人間という生物が何万年も命を繋いできているわけだから、当然といえば当然かもしれない。

わたしは24歳の独身。子供もいない。
だから、いくら感動しようと、このCMの母親たちの気持ちに本当の意味で「共感」などできない。

そもそも人は、なぜ親になるのだろう?

私は、子供を産むことを、怖いと思っている。

子供を持つ人を見ると、みんな幸せそうだけれど、本当に大変そうだからだ。
自分のことなんて、考える余裕すら与えてもらえない。

もちろん論理なんて子供の前では無に帰すわけだし、夜だってお構いなしに泣き叫ぶわけだし、それで特に子供たちから日頃の功労を表彰してもらえるわけでもない。(少なくともはじめの数年は)

趣味の時間だってもちろん取れなくなる。

それでも、文句ひとつ言うべきではないのだ。

だって生まれてきた子供は、母親に産んでくれと頼んだ覚えはないし、なんの罪もないのだ。
だから、子供にしてみれば、産んだのだから責任持って育ててくださいよ。虐待なんてしないでくださいよ、って話だと思う。

それでも、育児ノイローゼや子供の虐待の話が後を絶たない。
母親は腹を痛めて産んだ子供に対しては、脳の仕組みが変わってしまうくらいに愛情を注げる、なんて話もあるくらいなのに。

それほどまでに、育児というのは大変なのだろう。
それを乗り越えられるくらいの覚悟がないと、母親になんてなってはいけないのだ。

半端な覚悟で、流れで子供ができちゃった、なんて許されない。
泣くほどつらいなら、子供を産むな。

そう思っていたから、子供を産みたいのかどうかという気持ちに、向き合ってこないでいた。

「完璧な母親などいない」
「母親も子供と一緒に成長するのだ」
「辛さ以上の幸せがある」

そういう声に、こっそりとひとつひとつ自分の心の声を重ねあわせてきた。

「産んでしまったら後には戻れないから、そう言っているだけではないのか」
「子供がいなければ、そんな辛い思いはしなくていい。それが一番平和じゃないか」
「寂しいからとか、自分の家族がほしいからなんて利己的な理由で子供を産むのは間違っている」

そうして、自分に完璧な覚悟ができるまで、子供を産まないでおこうと思っていたのだ。

だって産まれてくる子も迷惑だろう。
勝手に産んでおいて、あとは「子供が仕事復帰の足かせになる」だとか、「子供の教育費でカネがない」なんてことをぐちぐち言われたら。

「じゃあ産まないでくれよ。こっちは頼んでないじゃないか」って思うだろう。

子供さえ産まなければ、こんな不幸なことは起こらないのだ。

産んだらわかるのかもしれない。
今は子供がいないから、あれこれ考えすぎてしまうだけかもしれない。

けれど、子供がまだいないからこそ、選べるのだ。
自分のために、将来生まれるかもしれない子のために、なにがベストなのか。

「望んでも子供を持てない人もいる」
3人に1人が不妊だという時代で、こんなふうに諭す人もいる。
けれど、「産める身体」だから「産む」ってのは、ちょっと違うんじゃないか。

ここまでが、これまでの私の考え方だ。
きっと母親たちからは大ブーイングだろう。

それは恐らく、私自身の完璧主義性から生じる、「母親になるのなら完璧な母親でなければならない」という観念が、私を縛り付けているのだろう。

それに、完璧な母親ってなんだろう。

「無」であることが何よりも平和な状態だと考える私。
そんなDNAは、自然淘汰されていくのかもしれない。笑

それでも、最近になって少しだけ考え方が変わった気がする。

考え方、というか、これは本能に近いのかもしれない。

街で小さな子供をみると、胸のあたりがむず痒くなって、勝手に頬が緩んで、ぎゅっと抱きしめたくなってしまうのだ。

私の中の「未来のママ」が目を覚まそうとしているのかもしれない。

私は子供がほしいんだろうか。

そんな心境になってくると、子供っていうのは頭で産むもんではないんだなと思えてくる。

「ああ、この人との子供を産みたい」という人に出逢って、

その人との愛情を育んだ結果として新しい命が生まれて、

ザッツ・オールなのかもしれない。

ちょっと、何もかもに理由を求めすぎているのかな。

変なセラピストの人がよく言っている、「あなたの心の声に耳を澄ませなさい」ということは、こういうことなのだろうか。

そうして私は、また考えてしまうのであった。

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。