事実はひとつ 解釈は無限?

とある無料の(洗脳型)セミナーで、こんな話を聞いたことがある。
(こんなことを言ったら怒られちゃいそうなので、秘密にしておいてください)

要するに、そこに横たわっている客観的事実はひとつだけれども、その解釈は無限に広がっているということだ。

有名な例で言えば、
親戚の伯父さんが5つのドーナツをくれて、お母さんが3つも食べてしまったものだから、三人姉妹の私たちは残り2つのドーナツを三人で分けなければならなくなったという事実があるとする。
ここにある事実は、5つあったドーナツが3つ食べられて2つ残っているということ。

これを長女のAさんがどう解釈するかは、無限の可能性があるということだ。

つまり。
「お母さんのデブちん食いしんぼやろう! おかげで私たちは3分の2ずつしか食べられないじゃないか!」
とお母さんに怒りの矛先を向けるのが王道だ。

「伯父さんめ。一緒に育ったのだから、お母さんの食欲くらい熟知しているだろうに。どうして5つしか買ってこないんだ!」
と伯父さんに八つ当たりするかもしれない。

「もともと今日のおやつは煮干しだったんだから、ドーナツがあるだけでもありがたい」
とお布施を受けた僧のように振る舞う心の余裕があるかもしれなし、

「ハッ、もしやお母さんは、私がダイエット中であると知っていて、伯父さんに気まずい思いをさせないためにわざと無理して3つも……」
という思考に至ると、妹たちにちゃんと1つずつドーナツを分け与えてあげられ、その上お母さんとも伯父さんとも円満に過ごせるだろう。

このように、客観的事実は同じでも、その解釈のしようによってその後の気持ちや行動が全く異なってくるのだ。

ここまでは、よくある「要は気の持ちよう」論だ。

けれど、そんな発見に喜んで、私たちは大切なことを忘れている気がする。

それは、「本当にドーナツは5つあって、今2つ残っているのだろうか」ということだ。

ドーナツ

ここで私は、「本当は見えないドーナツがあって〜」だとか、「ドーナツの穴の部分がちゃんと3つ分残って〜」などという非科学的なことを言おうとは思わない。

けれど、もしかしたらドーナツは最初から2つしかなかったのかもしれない。
よく思い出すと、お母さんが「3つ食べちゃった」と言っているのは聞いたけれど、食べているところを見たわけではない。
間違えて2つしか買ってこなかった伯父さんをかばうために、そんなことを言ったのかもしれない。

溢れる情報を処理する能力に長けてはいても、目の前の「情報」を疑うことを忘れてはいまいだろうか。
思い込みに振り回され、他の可能性を考えることができなくなってはいないだろうか?

目の前の「事実」に見えることを疑うこと、こういうのは怠っていると大変なことになる気がする。

事実は一つではなく、無限にあるのかもしれない。

あるいは、万人に共通する事実などというものは、ひとつもないのかもしれない。

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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