言葉はどんどん変わっていくものだから

「若者言葉」だとか、「ら抜き言葉」だとか、「ネット用語」なんてものが幅を利かせている。

それに対して断固として戦いぬく意志を崩さない人々もいるし、
ほとんど諦めてしまっている人もいるし、
特に気にしていない人もいる。

けれど、そもそも言葉とは、その成り立ちからして不完全なものだろう。

自分の切々とした思いも、言葉にするとかくも陳腐でありふれた言葉に成り下がる。
これでは相手に思いが届かない、と自分ではわかるのに、それ以上の言葉が思いつけない。
言葉とは、元来このように「不完全な伝達手段」であるのだ。

ならば、今散々に叩かれている言葉も、「誰かが誰かに意志を伝達するための手段」という目的を全うしていれば、それで十分ではないかとわたしは思うのだ。

現代の言葉は平安時代のそれとは全く違うし、多くの人が使うものである以上「それは今まで使っていた言葉と違う」という理由で排除することはできない。

この問題に、作家の村上春樹は、以下のように答えている。
「ら抜き」が嫌いです
僕らはエイリアン

はははは。
そうです。
つまり、言語などというものは、「どれが正しいか」ではなく、「どれが使われるか」という基準で淘汰されていくものなのだと。
個人がどの言葉を使おうと自由なのだから、あまり目くじら立てずに自分は自分の「これだ」と思う言葉を使っていればよいのではないかと思うのですが、そうもいかないのでしょうか。

わたしの父は、妹やわたしの使う「りょ(了解)」から派生して、「ただ(ただいま)」という造語をつくりだし、わたしたち姉妹から失笑を買っているのだけれど。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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