検索することと思考能力の関係について

「現代人が一日で得る情報量は、江戸時代の人の一生分にあたる」
というのを、どこかで聞いたことがある。

まさかそんなオーバーな、とは思ったものの、あながち嘘ではないかもしれないな、とも思う。

インターネットが普及してから。
目を瞑っていても、耳をふさいでいても、情報が体に流れ込んでくるようになった気がする。

そこで、そんなインターネット社会における、問題解決能力について考えてみた。

人間というのは、知識や知恵を溜めてここまで発展してきたはずだ。
それは、親や教師からの教授であり、本からの学びであり、それらを滋養とした思考能力だろう。
それを自分の中に溜め、発展させ、後世につなげていく。

そんな当たり前のプロセスは、インターネットが普及して大きく変化した。
「親や先生が、インターネット上の情報に成り代わっただけじゃないか。場合によってはそちらのほうがより専門的な回答が得られるのだ」
こんな風に考える人もいるだろう。

けれど、「親や先生の代わりとしてのインターネット検索」の神話性を信じてしまうと、いささか恐ろしいことになる気がしている。
確かに、目の前にある困った事態への対処として、検索をかけて問題を解決することは、とても魅力的である。
インターネットさまさま、なのだ。

実際、わたし自身も事あるごとに検索窓に言葉を打ち込む。
「冷え性 対策」
「京橋 駐車場」
「ランチ 梅田 人気」
と言った具合に。

料理の検索サイトもよく利用する。
母親が娘に花嫁修業として料理のいろはを教える、なんてかなり時代遅れに思えてしまうのだ。

そういうわけで、わたしは全く検索が悪いことだとは思わない。
むしろ、検索のおかげで手軽にいろいろなことが知れるようになった。
けれど、検索能力は上がっても、人々の問題解決力が上がった気がしない、むしろ退化している気がするのはわたしだけであろうか。

基礎を学び、そこから「自分のもの」として知識を応用していく能力としての「知恵」が、悉く抜け落ちている気がしてならない。
自分の中にコツコツ溜めていく知恵を「自家用車」に例えるなら、検索して導いた答えは、いつでも好きな時に好きな車種を乗り回せる「レンタカー」のように見えてしまうのだ。

そこには未来はない。
ただ過去の誰かが経験したことを追体験し、それが問題解決した気にさせているのではないか。

このように、他人が過去にした経験を交換し合い、その中だけで暮らしていくのには限界がある。
生産がなければ、ただ持っているものを消費せずに交換するだけの物々交換になる。

消費しない人間はいない。

時には検索で解決しない物事も出てくる。
むしろそっちのほうが多い気すらする。
自分で考えて、生み出して行かねば。

借り物ではない、あなただけの思考を。
でなければ、わたしたちがわたしたちであることに、何の意義もなくなってしまう。
検索さえすれば、対峙する人間の頭のなかも、相続問題も、病気の治し方も、全部解決してしまう世の中に、もはや人間はいらない。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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