書くということについて考える 『回転木馬のデッド・ヒート/村上春樹』

我々が普段見聞きしている(あるいはそう思い込んでいる)こと、つまり世界の表層部分ということだけれど、そういうのは、かなりの部分で我々の精神部分とは別のところで運行しているように思えてないらない。

例えば、テレビ番組。
例えば、FacebookやTwitterの投稿。
例えば、比較的親しい友人と食事を共にする時の会話。
あるいは、恋人といる時でさえ。

そういうものは、全て「作り物」であるように見えてしまう。
もちろん、それらを通じて生きている時はそれをそうだとは感じないし、嘘を生きているわけでもないのだ。

ただ、心の奥深くから発意する、「人間の真の営み」のようなものは、見えない。
それは隠されているというよりも、うまく表面に出てこないというだけのことなのだと思う。
そして、人間社会というものは、多かれ少なかれそういった「表面的取り繕い」を通じてしか、その不完全性を飲み込みながらも運営していくことは不可能なのかもしれない。

ときどき、そう言った「裏」がうまく描き出された小説に行き当たることがある。
わたしの場合は、村上春樹が絡んでいることが多い。
人間の、奥底。

ここに書かれた小さな話たちは、ほとんどが実話だという。
一見あり得なさそうで、でもドラマや小説の中で見知った事柄だからこそ、さほどの違和感は感じなくて、でも本当にある話。
人間は、こんなことだってできちゃうのだ。
そこには、理由なんてないちょっと不思議な出来事、どうしようもない内からの感情による行為。
「どうして? どうしてそんなことをしたの? どうしてそんなことが起こるの?」

科学がほとんど何もかもを解明したかのように思える現代では、人は「どうして?」に対する答えに期待しすぎているような気がする。

理由のないことなんて、いくらでも起こりうるのだ。
それは偶然なのかもしれないし、そうなるべくしてなったのかもしれないし、あるいはまったく関係ない2つの点がひょんなことから結ばれただけかもしれない。いつもより5分早くレールが切り替えられ、列車が別の方向に行ってしまうのかもしれない。

人の考えること、計画すること、理由を求めること、争うこと、生きていくこと。
全てに意味や理由なんてないのかもしれないけれど、そういうものを追い求めながらでないと、人間は人間ではいられないのかもしれない。

どこにでもある、けれど表面にはでてこないお話。
村上春樹が物書きであってよかったと思う。そして、人の話を聞くのがうまかったことも。

他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。
「おり」とは、その無力感のことである。我々はどこにも行けないというのが、この無力感の本質だ。
我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。P15

僕だって誰かに自分の話をすることはあるし、それに文章だって書いている。しかしそれにもかかわらず、「おり」というものは体の中に確実に溜まっていくものなのである。僕が言いたいのはそういうことだ。P13

こういう感覚が、わたしの場合は村上春樹の表現するそれと重なる。
わたしは、人と話をするのが苦手だ。
それは、恥ずかしいとか、そういうたぐいの話ではない。
話をするのは時に楽しいし、積極的に饒舌になることもある。
ただ、日々暮らしていく中で、人と話をする。
それを消化する時間が、人よりもかかるのだと思う。
これが村上春樹のいう「おりが溜まる」ということなのかもしれない。

人に説明する時、わたしはこの状態を「便秘と似た状態」と表現する。
人から、外界から受ける刺激を、わたしは少なくともこのように週に一回程度文章という形に直してみないと、うまく処理できない。
そのもやもやとした感じは体の中に溜まり続け、そのまぜこぜになった消化不良の食べ物たちがわたしの身体を満たした時、わたしは自分自身の中に閉じこもって何日も出て来られなくなる。
もう消化機能も、排泄機能も、完全にストップしてしまう。
それがうまく消化され、文章というかたちで排泄されるまで、とてつもない時間がかかる。

そういうわけで、わたしにとって「日常を文章というかたちにすること」というのは、つまりはある種の解放、デトックスのようなものだと信じていた。だから、以下の文章を読んだ時には絶望にも似た気持ちを覚えた。

自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。
少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。
もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。
自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。
もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。
人は書かずにいられないから書くのだ。
書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。P13

それでは、わたしは一体「なんのために」書いているのだろう。
どれだけ肉体が疲労していても、わたしは休日に書かないわけにはいかない。
同時に、書くという行為は、読む行為と違って精神的にもひどく疲れる。
ただ、「書かなければ、もっとひどいことになる」と経験から知っている。
それがあるいは錯覚であろうと、ある種の精神的解放にならないのであれば、どうしてこれまでして書くことにこだわらねばならないのだろう。

けれど、3日4日と考えるうちに、この文章に対して絶望とは違った気持ちが生まれた。
少し客観的に見られたということだろうか。

「書く」という行為を通して、確かにわたしは救われたことなどないのかもしれない。
読むことによって、救われる言葉に出会えたことはあっても。
ただ、書かないことには何もわからないのだ。
何もかもがごたまぜになった、闇よりもたちの悪い迷路の中で、わたしは書く。
そうすると、少なくともそれらのマテリアルは、たとえ一時的にせよ、カテゴリー分けされ、あるべき場所に収まるように見える。

そうすることで、それらの刺激物がなくなるわけではない。
けれど、少なくともわたしにとって「なんとか見える」ようになる。
それは肉体的にも精神的にも労働であり、その労働の後に残るのは、汚いものが排泄された美しい空間ではなく、ただ順序が並び替えられたそれらだけだ。
村上春樹が言いたいことがそういうことだとすれば、それは確かに自分の場合にも納得がいった。

「好きなことが、書くことが、義務になっている」
それをわたしはここのところ、負い目のように感じていた。
書かないことによって、もっと精神衛生上悪くなることはわかっていたが、それはわたし自身の完璧主義性から来るものなのだと。

けれど、それはやはり義務であったのだ。
わたしのような人間は、日々の生活で受ける刺激を全身全霊で受け止め、それを全身全霊で文字にしていかないことには、うまく生きていられないのだ。

それがわたしが書くことを愛する理由であり、また書くことから逃れられない理由でもある。
だから、いくら楽しい予定がてんこ盛りであろうと、書く行為をする時間がない週は、とても不安定になる。
それは、ただ、迷子になり、溺れかけているのだ。
日々に。

話がそれてしまったが、この『回転木馬のデッド・ヒート』を通じて、村上春樹は彼なりに溜め込んだ「おり」を目に見える形にした。
それは誰のためでもなく、そうするしかなかったのだと彼は言う。

他の作家にとって、書くという行為はいったい何なのだろう。
そんな興味が湧いてきた。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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