「障害」と「個性」の境界線

障害って、何なんだろう。
「社会生活を送る上で、困難が生じる状態」
だと、わたしは定義している。

それは、社会が変われば、障害の定義や幅も変わるということ。
近ごろ、精神障害も含めて、障害や病の幅が広がっている気がする。そこには、医師会の思惑や医療の発達やなんやらかんやらがあるのだろうけれど、そういうのを抜きにしても、たくさんの診断名が存在する。

それは、社会がそういう人たちを受け入れたということ?
それとも、「社会生活を支障なく送る」ことが前よりも難しい、狭苦しい社会になっているということ?

確かに、診断名がつくことで、精神的にも経済的にも社会的にも救われる人は、きっとたくさんいる。
だから、そういう小さな傾向が認められて、守られるのは良いことなんだと思う。

けれど、そこに存在したはずの「個性」は、途端に社会に溶け込むことができない理由として、壁になって立ちはだかってくる。
レッテル。

先日、留学時代の友人たちと再会した。
わたしの底を知っている、気の知れた親友たち。
彼女たちの中に、自閉症の就労支援を仕事にしている子がいる。
話していると、自分の特徴、生きづらさのポイントと、その自閉症の人たちが驚くくらい共通点があった。

ああ、と思う。
そうだったのか。
発達障害。やな言葉。
でも、わたしが悪いわけじゃないんだ。
そういう特性なんだ。

一方で、そこに逃げようとしている、そう思いたいだけの自分も垣間見える。
自分が甘えているだけだろう、とたしなめる自分。

けれど、その施設で働く人々は、わたしよりもよっぽど自分らしく、キラキラと働いているように見えた。

わたしはきっと、程度が中途半端なんだ。
死ぬほど頑張って、常にフルターボで稼動すれば、うまく社会生活をこなせる。
時に優秀とさえ言われるくらいに(体力を除く)、うまくやる。
けれど、電池が切れやすい。

でも、思うわけ。
やりたいことや得意なことを持っていて、それに命賭けて全力投球してないことは、逆に逃げてるってことだ。
そうであったかもしれない自分の可能性に幻想を抱いて、今に耐える自分を、自嘲気味に讃えるだけ。

もう、こんな消耗はたくさんだ。
わたし自身がもともと持っているものを変えられないなら、わたしが持っている資源たちを、できるだけキレイな作品になるように、ちゃんと手をかけて作ってやらなきゃ。
それが、自分の人生を生きるということ。

よし、貯金をしよう。
そして、そのお金を自由時間に投資して、わたしはわたしを極めることにします。

もう、保身ばっかの人生、やーんぴ。
守るものがまだ何にもない今だからこそ、今にしかできない選択だと思うから。

ブログ運営者

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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