歴史は繰り返されるのか?ということ

人生50年。

織田信長がそう言ってから、時代は何百年も過ぎた。
もはや織田信長自身がそう言ったのかすらも定かではないほどに。

今、人間は天寿を全うすれば、おおよそ80年ほど生きられるようになっている。

縄文時代に生きた人からすれば、もはや別の生命体であるかのように感じてしまうかもしれない。

けれど、縄文時代の寿命だとか、織田信長の発言だとかを「実際に」見聞きした人は、もうこの世にはいない。

わたしはここに、「歴史は繰り返される」と言われる所以があるのではないかと思う。

人は、実際に経験してみないとわからない、というのはよく言われることだ。
けれども、巷には知識や名言、過去の歴史を示す資料が溢れている。
みな、自分のいのち以上の事実を残そうとする。

わたしたちは歴史を学び、あたかもそれらを追体験したような気持ちになる。
つまり、過去に生きた人々に自分の経験値を積み上げていけるのだ。
人間がこれほど知能的に進化した理由はここにあるのではないかと思う。

ただし、注意しなければならないのが、それらが実際に体験してきた経験値ではないということじゃないだろうか。
第二次世界大戦を生身で経験してきた人が、次々に寿命を迎えている。
そして彼らは、残された人に二度と悲惨な戦争を繰り返させないよう、彼らなりに必死で伝えてくれている。

あるいはそれは、戦争を先延ばしにできるかもしれない。
けれど、戦争というものを実際に体験したことのない者には、その悲惨さを本当の意味で肌で感じることはできない。
傷は薄れ、やがて忘れられる。
いくら歴史の教科書に載ろうと、それは「情報」でしかなくなってしまう。

悲しいかな、いくら情報を集めたところで、人間は(少なくともわたしは)自分が生きた数十年の経験からしか、実感を得られない。

「いいね、今の時代の人は、焼いたものが食べられて」
生肉でひどく当たった経験のある石器時代のおばあちゃんは、火を発明した息子にこういうかも知れない。

「いいね、今の時代は米があるから。食いっぱぐれることがないじゃないか」
農耕を始めた弥生時代を生きる孫に、そう告げるかもしれない。

「いいね、もう江戸まで何ヶ月もかけて歩かなくてもいいのかい」
江戸時代を生きたお年寄りは、電車を見てそう呟くかもしれない。

「いいね、今の時代は。女は働いて家事も育児も全部やらなきゃいけない時代は終わったのかい」
女が家庭に入ることが当たり前になった時代を生きる娘を見て、ある人は呟くかもしれない。

「いいね、今の女性は働きやすくて」
自分の人生において、結婚して働くことを諦めざるを得なかった専業主婦はこういうかも知れない。

少なくとも、人は未来の「自分」の希望を叶えるために努力を重ねてきたはずだ。

あるいは、逆の場合だってある。

「いいなぁ、石器時代は。年貢を収める必要なんてなかったんだもの」
自分で汗をかいて作った作物を、権力者に奪われた弥生時代の人はこう言うかも知れない。

「いいなぁ、江戸幕府が続いていた頃は。アメリカの文化が入ってきてから、時代の変化についていけないよ」
明治維新を生きる、温厚な若者は言うかもしれない。

「いいなぁ、三丁目の夕日みたいな時代は。近所の誰かがいつも助けてくれてた」
親になって、自分の子供を学習塾に送り迎えし、隣に住む人の顔も知らない時代の母親はため息をつくかもしれない。

「いいなぁ、お母さんは。専業主婦でも、子供を育てられるような時代に生まれて」
働きながら家事をこなすことを想像するだけで子供を諦めた女の子は、言うかもしれない。

みんな、その時代の「知っている知識」だけを都合のいいように抜き取って、あこがれを抱く。
時代の変化は、前の世代が自分たちに押し付けた価値観でしかないとぼやく。

いつの時代も。
人は不平をこぼし、知っているだけの「歴史」や、過去の自分の希望を叶えられる現世代と比べ、羨む。

いつ気付くのだろうか。
きっと、どんな環境にあっても、その時代に生まれたことを受け入れ、自分というものをそれなりに生きていくしかないのだと。
比べることに、意味は無いのだと。

いや、きっと多くの人が気づいているのだろう。
けれど、愚痴をこぼさずにはいられない。
「どうして」と、疑問符が頭をよぎる。

これだけ、何万年も何万年も人類は努力してきたのに。
自分たちの未来が良くなるようにと、希望を込めて。
それなのに、今のわたしたちは果たして幸せなの?
そう終わりのない問いを、愚痴という形で発せずにはいられないのかもしれない。

それはきっと、「自分たち」の中に自分たちの遠い子孫が含まれていないからじゃないだろうか。
あくまで「未来の自分」のためだったからじゃないだろうか。
だから、自分じゃない誰かが、自分の理想だったことを叶えられる場所で、その環境を作った自分たちに感謝さえせずに暮らすことに耐えられないのかもしれない。
せめて、幸せそうにしてよ。わたしたちがこの環境を作ってやるのに、どれだけ苦労したと思っているの。
でも、幸せにもならないで、悔しいから。

そんな自己矛盾が、歴史を繰り返させるんじゃないだろうか。
正確には、不可逆的な「時間」という概念を信じる限りは、歴史は完全には繰り返されない。
けれど、精神的には?
人という本質がそれほど変わらないとすれば、ほとんどそっくりそのまま歴史は繰り返され続けているんじゃないだろうか。

それでもわたしたちはきっと、「未来の自分」のために日夜あくせく働くことをやめられないんだろう。
少なくとも、大きな社会的な流れとしては。

ただ、それを「個」に置き換えれば、小さな範囲での幸福感は得られると、わたしは信じている。

あなた「個人」としては、どう生きるのだろう?

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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