何かがこわいとしたら、死ぬのがこわいのだ[お便りします02]

雪見草さん

お便りをありがとうございました。
イタリア旅行のお話、とっても楽しく読ませていただきました。

イタリアというと、粉チーズの効いたバジルとトマトのスパゲッティか、ところどころ膨らんだ薄いピザというイメージがしっかりと私の頭には埋め込まれているのですが、かまぼこが美味しかったというのは驚きでした。

いったいどんな味がするんだろう?
すごく気になります。

さて、保守的な弟さんのことについて書かれていました。
雪見草さんとしては、一回きりの人生なんだから、自分の興味の向くままになんでもやってみたらいいと思っている。
けれど、弟さんは週の半分はぶつぶつ文句を言いながら、週の半分は自分の仕事にそれなりの(というのは雪見草さんの付け足しですか?)誇りを持ちながら、ただ漫然と仕事をこなしている。

自分のやりたいことをするために思い切って仕事をやめて、今もお金にならない(すみません)努力を続けている自分は、弟さんに比べて地に足の着いていない、浮き草のような存在のように思えて辛いのだと仰っていましたね。

私には雪見草さんをすっかり満足させられるお返事ができそうにありませんが、例えば雪見草さんは「そうしよう」と思えばそっくりそのまま弟さんと同じような生き方ができるのでしょうか?

もし答えがNOならば、こうして神経をすり減らすよりも、よく晴れた水曜日の昼下がりに原っぱに出掛けていってきりっと冷えたビールでも飲んでいたほうがずっと幸せであるような気がしています。

たぶん雪見草さんは、ご自身でご自身の生き方をまだ許せていないのではないでしょうか。
お金がなくなるのがこわい、成功できないまま人生の落伍者になるのがこわい、自分が近い将来に妥協してしまうかもしれないのがこわい、と書かれていました。

それはきっと本当にとてもこわい感覚なのでしょう、私にまで冬の寒さが戻ってきたように感じられました。

雪見草さんにお手紙をいただいてから、来る日も来る日も「こわさ」について思いを巡らせていました。
どうして私はちっともこわくないんだろうな、と。

そこで、はたと思い当たったのです。
雪見草さんは、ちっとも独りよがりじゃないからだ、と。

考えてもみてください。
お金、成功、妥協、すべて他人との相対的な距離で測られるものです。
他人の満足と引き換えられる、と言うこともできるかもしれません。

そしてここからは推測ですが、他人に満足を与えられないことは、すなわち私たち人間にとって死を意味するのではないでしょうか。
個体としての生き物である一人の人間にとって、死は決して避けられないうえにもっとも恐ろしいもののひとつです。

弟さんは、自分のやりたいことを犠牲にしてでも他人の満足度向上を目指して働く。死ぬのがこわいからです。

雪見草さんは、自分のやりたいことを突き詰めながら他人の満足度向上を目指して生きている。死ぬのがこわいからです。

こんなふうに考えてみると、弟さんがぐっと身近に感じられませんか?
と、なんだか偉そうなことを言ってしまいました。どうか気を悪くなさらないでくださいね。

さて、私がこわくないのは、果たして他人を満足させられないかもしれないということなのか、それとも死ぬことそのものなのだろうか。
実を言うと、なんだかよくわからないのです。
私にはもしかしたら、こういった哲学的な話は少しレベルが高すぎるのかもしれません。
雪見草さんのような方が私と二年も文通を続けてくれていることが奇跡であるように思えてきました。

こんなふうに手紙を終えてしまうとなんだか味気ないので、今日の夕方五時から一時間のあいだに起こったことをお話します。

今朝の大阪は雨でした。
冬のあいだどこかで眠っていた春が「よっこいしょ」と腰をあげたときに、ぱらぱらと春の体から落ちた塵のような、感じのいい雨でした。

今年は街も静かで、春も少々寝坊気味のように思えます。
お昼間でも、まだ薄いコートがいるくらいです。

仕事から帰ってきてもまだ日没まで一時間以上あったので、庭の草むしりをすることにしました。
草むしりをするなら、雨のあとがいちばんです。

お日さまの光が強くなる今くらいの時期からお盆休みに入るくらいまでの季節が、私は一年のうちでいちばん好きです。
夜もいいのだけれど、寒いのが苦手なのです。

それで、伸びた草をせっせと抜きながら「これは無駄な殺生にあたるのだろうか」というようなことを延々と考えていました。
見た目には可愛らしいと言ってもいい、たぶん学術的にはちゃんと名前のある草たち。
彼らはちゃんと生きているのですが、私は別段自分の命がかかっているわけでもないのに、彼らをむしり取っているのです。

それから、もう何十年も物置に放置されていた殺虫剤の類も処分しました。

あまりにも容器が古くて、軍手をした手で掴んだら容器が壊れてしまいました。
この殺虫剤が使われなかったことで救われた虫の命があったことでしょう。
でもそれなら、殺虫剤そのものの命は? 少なくともこれを作った人が人生の一部をかけて作った製品は、無駄にされたのです。

そんなことを考えていると、結局はなにもかもがプラスマイナスゼロになって釣り合いが取れているような気がしてきませんか?
すべては誤差範囲、ということになるのかもしれません。

それでいて、まだ私は自分の死についてうまく想像することができないのです。

それではまた。

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