未来のために生きていると、未来はけしてやって来ない[お便りします03]

目をよく凝らせばもう夏が見えそうな時期だというのに、今日は摂氏15度しかありません。

このあいだの雨で桜はすっかり散り、新しくて美味しそうな緑の葉っぱが出ていました。
もう来年の準備をはじめているなんて、桜というのはとっても計画的な植物だと思いませんか?

そういう僕たちも、何十年もあとに備えてせっせとお金をためこんでいるのですから、あるいは僕たちのほうが計画的なのかもしれません。
あなたなら、そんなのは計画ではなくて可能性的見地という概念を利用したビジネスに搾取されているだけなのだと笑うかもしれませんね。

でも僕たちは、少なくとも僕はそんなふうに未来の安全レベルをできるだけ上げておかないことには、明日が来るのがこわくてたまらなくなってしまうのです。

どうしてただ生きているだけなのに、明日がこわいのだろう。
僕はふと思いついて、この問題についてしっかりと腰を据えて考えてみることにしました。

人間というのは、自分がいつかは必ず死ぬことを「事実」として知っています。
その恐ろしさからできるだけ目をそらすため、あるいは何かしらの形で希釈するため、
死ぬ一瞬手前までの生をできるだけ安全にしておこうとしているのでしょうか。

そのおかげで今現在が軽んじられても、もっと言えば危険にさらされても、僕たちはそれを重大なことだとは思わない。
でもそれが一瞬先より向こうの未来となると、途端に僕たちは未来の僕たち自身を信じられなくなってしまうんです。どんな困難も、未来の自分から遠ざけてあげたい。子供がいる人というのはこれと同じような気持ちを子供に抱くものなのでしょうか。

未来の計画を立ててーいわば未来のリスクヘッジをするためにー今を生きていると、自分がいったいどの時間軸に生きているのかわからなくなることがあります。

例えばあなたがこの手紙を読む頃、桜の木のまわりにはたくさんの毛虫が出てきているでしょう。
否応なしにエネルギーに満ちた太陽が、春の努力も知らずに鷹揚に構えた夏を迎える準備を始めるでしょう。

僕は手紙の差出人としてあなたのそばにいて、熱を吸った空気を鼻いっぱいに吸うでしょう。

では、今この手紙を書いている4月の終わりの僕は、いったいどこに行ってしまったんだろう?
そう思い至ると、僕の生活はこれまでずっと僕自身を置き去りにしていたように思えてなりません。

朝ごはんを食べながらほんの少し過去のことが書いてある新聞に目を通し、
電車に乗りながら法則としての英文法を身に付け、
仕事では常に未来の計画を横目で捉えながらキーボードを打ち、
昼休みにはその日の夕飯と、二日後の図書館の返却日と、一ヶ月あとの人事異動のことをぼんやりと考え、
帰りの電車では今よりも稼ぎのいい仕事について調べながらのど飴をなめている。

驚くべきことに、僕は自分がその瞬間息をしているということにさえ気づかないまま、35年も生きてきてしまったようです。

人間はこのようなつくりにできているのだろうか。

ここまで考えたところで、前にあなたに教えてもらった「集中」のことを思い出したのです。

あなたは言っていましたね。
「ご飯を食べるときは、ご飯を食べることに集中するのです」と。
「洗い物をするときは、泡が食べかすを落としてくれるさまに集中するのです」と。
「時間を確かめるときは、その時間が自分の生活において意味するものではなく、針が時を刻むという事実そのものを確認するのです」と。

そのときの僕は「大変参考になります」だとか「僕も試してみます」だとかそんなふうにお返事したかもしれません。
でも結局そのままにしてありました。
なにしろ、僕の頭の半分はその日壊れたイヤホンを修理に出すことを考えていたし、ウイスキーをストレートで飲んでいたせいで思考がばかになっていたのです。

あなたの興味深いアドバイスを、僕はおそらく他の多くの人と同じように、「効率」の観点から不採用とすることにしたのです。

それでようやく本題です。
前置きの長すぎるのが、僕の欠点ですね。
これでも上司に随分と矯正されたのですが。

ふとあなたのことを思い出して、食事の際に別のことをしないようにしてみました。
今よりほかのことは、なるべく考えないようにしました。
これは思いの外むずかしいことでした。
どうしても、咀嚼しているイワシが海で泳いでいるところや、お米を作った農家が借金をしてコンバインを購入する風景が頭に浮かんでしまうのです。

そこで僕は思い切って「何もしない」ことに集中してみようと思ったのです。
俗に言う「瞑想」や「マインドフルネス」という類のもの、ということになるのかもしれません。

最初はただ目を閉じて座っているのが暇でしょうがなく、あれこれと考え事をしていました。
自分の内側に、これほどたくさんの思念の端切れのようなものがあることに、とても驚きました。

実を言うと、これだけでも大変思考の整理になり、頭がクリアになる感じを得ることができました。
普段の自分は、一度にいろんなことを効率よくこなしているつもりで、ほんとうは何一つしっかりと見ていなかったんだということを知りました。
生きていなかった、と言ってもいいかもしれません。

それで終わっても良かったんですが、興味半分で自分の息を観察してみることにしたんです。
大きく息を吸うと、頭が空洞になり、指の先、足の先まで空気が行き渡ります。
そして息を吐くと、今度はその空気が体の中のいらないもの、コンピュータでいうところのキャッシュのようなものを絡め取って、口まで運んで戻ってきてくれるような感じがしました。

そうして一生懸命呼吸をしていると、試しに呼吸をやめてみてもいいんじゃないかと思うようになりました。

子供の頃、思い切り息を吸って、それから息を止めた経験って誰でもありますよね。
僕は二分近く止めることができて、ちょっと得意に思ったのを覚えています。

今回は息を吐ききってから息を止めてみることにしました。

まず、頭がくらくらする感じがありました。
それから手がしびれる感覚があり、ついには喉が勝手に空気を求めて動き出して、それ自身で喉をつまらせてしまうような動きを始めたのです。

僕たち人間には数多くの死に方がありますが、先に息ができなくなる死に方はごめんだと、荒い息の中で心底思いました。

そういうわけで、どのみち人間は一度にふたつ以上のことー例えば呼吸と食事ーをするのですから、せめて今現在に意識を集めるのも手ですよね。

未来の計画ばかり立てていると、いざその未来がやってきたとしてもそれに気がつかずに、さらに未来のことばかり考えている気がします。
未来なるものは、永遠にやってこない。
それって本当につまらないし、死んだあとで振り返ったときにどっと疲れそうです。

というようなことをウンウンと聞いてくれそうな相手があなたしか思い浮かばなかったので、お便りしました。

もし僕たちが揃って別の惑星に生まれていたら、
あるいは僕たちは実際に会って、結婚だってしていたかもしれませんね。

では。
カンガルーより。

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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