文通相手のこいびと[お便りします05]

前に手紙をもらってから、返事を書くのが随分おそくなってしまいました。
言い訳はいろいろあります。

飼っていた猫が急性アルコール中毒になってしまって病院に運ばれたり(猫がアルコールに弱いなんて初めて知りました)、
ソクラテスの子孫だって人に歴史の家庭教師をすることになったり(彼はソクラテスを作曲家だと思っていたんですって)、
隣の隣の家が家事でぜんぶ燃えちゃったり、
突然冷蔵庫が壊れてしまったり、

それはそれはもう、とっても忙しい二週間だったものだから。

でも不思議と、わたしという人間はちっとも変わっていません。
進歩していない、という言い方のほうがいいかもしれませんね。

どうやら人間というものは(ほら、また一般化してしまいました)、自分と自分以外の物事の関係性を前にすすめるか、それとも自分という人間を前にすすめるか、一度にどちらかしかできないようです。

というわけで、こうしてあなたに手紙を書く時間がやっとできて、私は久しぶりに自分を前にすすめるほうにギアを切りました。
ぎしぎし。
きしむ音。

さて、お返事が遅くなったのには、お手紙の内容も関係しているのです。
これが今日の夕飯の話だとか、次の選挙の話だとか、死んだ芸能人の話だったなら、もっと早くに書けたと思う。
だってそれこそが、つまり「そういうサイドの事がら」こそが、この二週間わたしがどっぷり浸かっていた世界なんですから。

もしかしたら、この手紙もちょっとにおうかもしれません。関係性というのは、ひどくにおうらしいから。

さて、あなたが書いて寄越してくれたことの中で、なんといっても一番印象に残っているのは、自己犠牲の話です。
世の中には自分の顔があんぱんでできていて、それをお腹がすいた人に分け与えるという殊勝な行いをしている人もいるんですね。なんだか世の中に希望が持てたような気がします。

彼が空を飛べるのは、きっと特別な存在だからなんでしょうね。
うんとうらやましいけれど、わたしの顔は噛んでもちっとも美味しくないでしょう。

あなたは、自分の顔がもしあんぱんでできていたら、たとえもうそれが最後の在庫だったとしても、わたしにパンを分け与えたい。欠けた顔を抱えて永遠に幸福に生きていけると、そう言っていましたね。

その「もし」がかりそめでないのだとしたら、それは実に立派な自己犠牲の精神です。
わたしはそれを受け止めるべきだし、もしもあなたがお腹をすかせているなら、わたしだって顔を差し出すのかもしれない。
だって恋人同士というのはそういうことでしょう?

でもここで、ふたつの問題があります。

まずはわたしがちっともお腹をすかせていないということ。
それから、顔をわたしに分け与えるという行為をあなたが「愛」と呼んだこと。

つまりそれは、あなたにはとっても気の毒だけれど、それは自己犠牲でも、まして愛でもなく、自己満足なのです。これについては、書くべきかどうか随分なやみました。
でもわたしはあなたとずっと恋人でいたいと思っているし(結婚なんてぜったいにしないでおきましょうね)、恋人同士に隠しごとは禁物ですから(隠しごとと優しい嘘をはき違えているひとっていますよね)。

あなたはわたしを愛しているわけでもなく、愛したいわけでもないのです、残念ながら。

あなたはわたしに愛されたいのです。

だからつまり、ボールはわたしのほうにあり、わたしがあなたを愛しているか、愛したいかということが問題になるわけです。
いくら恋人同士とはいえ、愛となるとけっこう取り組むのに時間がかかりますよね。

だからわたしのほうで準備が整うまで、その準備期間を早めることのできるいくつかの現実的な方法をあなたに教えてあげようと思います。
この手紙が届く二日後に、その内容を書いた別な手紙が届くようにしておきますね。
そうすれば考える楽しみができるでしょう?

では今から、お母さんにあなたのことを話してきます。

顔も名前も年齢も、職業も住んでいる場所もわからない恋人のことを誰かに説明するのって、ほんとうに難しいですよね。
でもお母さんはわりに寛容な人なので、たぶんわかってくれると思うわ。

それでは。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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