【長編小説】『空色806』第16章(3)「音楽をもういちど」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 「エネルギーポイントのことは、知っていました」リセが沈黙を破った。重苦しい空気を身に纏っていた全員が、またも彼に助けられた形になった。

 「キベは私の双子の弟ですからね。あいつが何か大きいことをしでかすときは、なんとなくわかる。それに、このエネルギーポイントは、私の一族が継承することになっていた。それはキベでもよかった。あいつは幼い頃、よく言っていました。この島の反対側に、エネルギーポイントと同じような、小さな力の集まりを感じる、と。繊細な子どもだったから。それをあいつは本当のエネルギーポイントにしてしまっていたんですね。地上からトラリア行きの。サク様を連れてこようという時、キベはその手順を詳しく君に伝えたろう。聡明な君がたまたま伝え誤ったのだ、と信じてもいいだろうか?」リセはルカを見る。

 「伝え誤る?」朔は頭の中で脳みそが沸騰しているように感じていた。

 「そんな馬鹿みたいな理由で、わたしは危うく死にかけなきゃならなかったの? ほんの少し、自分の生きる世界で生きづらさを感じただけで。勝手にここの、わけのわからない歴史を押し付けられて、ホープ様だかなんだか知らないけれど、そんなことって、あんまりすぎる」

 自分で選んでここに来た。ここにいる人たちは、みんないい人。それぞれに葛藤や悩みを抱えながらも、悪人はいない。そう信じて、だからこそ、自分だけが汚く嫌味な人間に思えて仕方がなかった。だからだろうか、朔は正直言って安堵していた。誰かを責められることに。ここにいる人だって、自分みたいに弱くて、汚くて、自分勝手なんだって思いたくて。一人じゃないんだって思いたくて。それほど、ここに来てから出会った人たちは、居心地の悪いほどいい人たちばかりだった。

 「わたくしは怖かったのです。朔様、いくら謝っても許していただけるとは思っておりません。あの時わたしは、あなたの顔を見た瞬間に心変わりしてしまったのです。この人が、ホープ様が本当にもう一度トラリアに来たら、トラリアはもう戻れないところまで行ってしまうんじゃないかって。でも、あなたはここへ来た。手順を間違って、それはつまり、もとの計画通りにちゃんとした正規の方法で。それを知った瞬間、これはきっとトラリアの運命なのだと悟りました。トラリアが救われる、唯一の方法なのだと」

 「そんな都合のいい話が」

 「ルカよ、君はそれほど遠くに行ってしまうまで、自分の手を黒く染めてしまうまで、自分を追い詰めていたのか」
 王の言葉の盾が、朔の言葉の矢を退けた。また。またわたしだけが悪者になるじゃない。やめてよ。一人にしないでよ。わたしのことも、愛してよ。

 「サクよ、巻き込んでしまって、本当に申し訳ないことをした。君のことは、きっと無事に地上に送り届ける。時間はかかるかもしれないが、君の本当の家族のところへ。だから、もう少しだけ待ってほしい」

 「なあ、レベッカ」カードルは、胸から娘を引き離し、目線を合わせた。

 「私はお前が優等生でも、劣等生でも、どんなお前だって、どうしようもないくらい愛しているんだ。まだわからないかもしれないけれど、自分の娘というのは父親にとってそういうものなんだよ。お前には反抗期がなかったね。まだないだけなのかもしれない。けれど、父親に反抗できる娘というのは、自分が何をしても愛され続ける自信があるから、そんなことができるんだ。君にうまく反抗させてやれなかったのは、私の責任だ」

 「そんなことないよ、お父様。わたしはちゃんとお父様に愛されてるって知ってる」

 「じゃあ、一つだけ頼みごとを聞いてくれないか。頼りない父に、最後のヒントをくれないか」
 こくり、と少女は頭で返事をした。

 「五年前、覚えていないだろうけれどまだ君が八歳の時、私はあることを君に問うた。願い事が何でも、そしていくつでも叶うなら、何を願う? と。そして君は、それに対して幼く微笑ましい返事をくれた」

 「ルカみたいに、空を飛べることと、魚みたいにすいすいと海を泳げること、でしょう?」

 「覚えていたのか。なら、同じ質問をもう一度させてくれ。十三になったレベッカが、いくつでも、何でも願いを叶えてもらうとしたら、何を願う?」

 カードルは、女性への一歩をすでに踏み出している娘の瞳を優しく見つめた。彼女の瞳は透き通った茶色で、そこには強さと優しさと聡明さが見て取れた。それらはまだほんの双葉で、これから大きく育ち、美しい花を咲かせるだろう。王はその瞳の中に、自分自身を見た。ひどく老いた、疲れた表情の男がそこには映っていた。

 「そうね、やっぱり空を飛ぶことと、海の底を何時間も泳ぐことかな。ちょっと子どもっぽいかもしれないけれど、それっていくつになっても素敵」レベッカはほんの一瞬だけ思案してから、白い歯を見せてそう言った。

 「あ、あとできたらお母様に、あたしは元気だよって言いたい。ってそれはもうスズが……」そう言って姉妹は顔を見合わせ、例のようにくすくすと二人にしかわからない秘密を確かめ合うのだった。

 「ホルンを上手に弾けるようになることは? リセよりも物知りになることは? 小麦農家のハタさんに認めてもらえるパンを焼けるようになることは?」

 王はもう一度娘の瞳をまじまじと見つめた。彼は、娘が日頃からそれらの目標に向かって努力している姿を見ていた。

 レベッカの顔がくしゃりとほころぶ。気泡の全くない高級なビー玉のような目が、頬に押されて隠れる。

 「それはね、願いごとじゃないの。神様に叶えてもらいたいことじゃ、ないんだ。あたしが、毎日頑張って、ちょっとずつ自分から近づいていく夢なの。誰かに叶えてもらう願い事は、自分ではできないことじゃなきゃ。それにパンは、どう頑張ってもスズには敵いそうにないから諦めるわ。あんた、自分の持ってるものに気づいてなさすぎ」

 姉は妹の方に向き直って、またいたずらっ子のような笑顔を向ける。綺麗に整った白い歯。栄養の行き届いた美しいポニーテール。笑うと見えなくなる、茶色の瞳。照れ笑いをする時、ほんの少しだけ眉間にシワが寄る。この子は本当に心のきれいな子なんだ、とそばで見ながら朔は思った。

 「それなら、そんな自分の力では叶わない願いを叶えるためには、楽器を使うべきだろうか。誰かが誰かを妬んだり、羨んだり、比べたりすることのない世界へ、みなを誘うべきだろうか」

 「楽器のことはわからない。それは、お父様が決めて。王様でしょう。でもね、あたしは、ほんとうに空を飛べたり、海をすいすい泳げちゃったらつまらないな。自分でどうしようもないことは、夢として持っているからいいの。それはある意味では、実現しちゃだめなことなの。あたし、変なのかな。悲しいことだってそう。お母様とホープがいなくなったこと、その悲しみが癒えるにはまだまだ時間がかかるだろうけれど、でもあの日からあたしはお父様のことがもっと大好きになったよ。ちょっと嫌いになって、もっと大好きになった。ヨーテのことも、スズのことも、みんなのことが。みんなだって突然いなくなっちゃうかもしれないんだって思ったら、みんなと過ごす一瞬一瞬がきれいで、ここがぎゅうってするんだ」レベッカは左胸を押さえながら、もう誰に言うでもなく話していた。

 「もし、魔法かなんかで簡単に二人を呼び戻せちゃったら、あたしは同じようにこうやってみんなを大切にできたかな? あたしは、自分のことをそこまでできた人間だとは思えないよ」

 「ねえ、パパ。大事なことを忘れてるよ」ずっと朔の手を握っていたスズが、手をつないだまま父に言った。

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第16章(4)「音楽をもういちど」(王 四十七歳)

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