【長編小説】『空色806』第16章(4)「音楽をもういちど」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 「ねえ、パパ。大事なことを忘れてるよ」ずっと朔の手を握っていたスズが、手をつないだまま父に言った。

 「みんなが幸せになることを願うことはいいけれど、パパがみんなを幸せにできるって思っていたら、それはうぶのれだよ」

 「うぬぼれ、ね」朔は隣で小さく訂正してやった。

 「そう、うぬぼれ、だよ。それにね、そのピアノを演奏するのは誰? 歌を歌うのは誰? パパ一人でどっちかに決めたとしても、スズは歌わないからね。悪いけど」

 「すみません、王様。わたしもです。わたしも、全然ピアノなんて弾きたくありません。小さい頃から、楽器の演奏は苦手だったし」

 王は二人を見て、しばらく呆気にとられたまま動けなくなっていた。ルカやルルも同様だった。ソメイとヨシノは相変わらずニコニコとした笑顔を貼り付けたままだったし、リセは笑いを堪え、ついにヨーテがこらえきれなくなって吹き出した。

 「そうですよ、王様」ヨーテは朔とスズの間に入り、二人を抱きしめた。

 「カードル様は優しい人だから、みんなの幸せを願っている。一国の王として、国民全員が幸せであることを、少なくとも不幸ではないことを願ってくださっている。でもね、そろそろ気づいてくださいよ。人の幸せってものは、他人がまとめて背負えるほど軽いものじゃないし、幸せのものさしは自分の中にしかないんですよ。測る前からそれを小さなものだとか、自分には大きすぎるって決めつけちゃう人もいれば、ひとつの測り方を延々と繰り返してその小ささに嘆き続ける人もいる。あるいは、同じものを測っても、その横幅だけじゃなくて縦の長さや高さの数値が案外大きいことを発見して幸せを見つけられる人もいる。そして、その目盛りの大きさはその人しか知らないんです。なんだかワクワクしませんか? あら、王様これでお拭きになってくださいな」

 鼻水がだらだらと垂れていた。そして王は、ヨーテが差し出してくれたティッシュペーパーを鼻にあてがったところで、やっと自分の顔全体がぐしゃぐしゃになるほど、自分が泣いていることに気がついた。

 「私は裸の王様だったのかもしれない」

 「いいじゃない、まだ夏なんだし」レベッカが天井の上の、ソメイとヨシノの部屋があるあたりのさらに上にあるはずの太陽を見上げるふりをする。

 「冬になるまでに、春に美容院に行った羊たちの毛でコートをつくろうよ。ね、サク?」

 「そうだね」朔はスズとヨーテと目を合わせてにっこりと微笑んだ。

 「ああ、そうだ」何かを思い出したようにヨーテが立ち上がり、部屋の隅の方へ歩き出した。
 「隠していたわけじゃないんですけれど、あたくしは地上出身の者なんです」

 しん。部屋の中の音がもう一段階、静かになる。ヨーテの突然の告白に、みな言葉を失った。かろうじて、ルルだけが「ええっ」と小さく声を漏らした。

 「地上では、有名なレストランのパティシエをしていたんです。もう二十年近くも前のことですけれどね。念願叶ってようやく入った一流のレストランでね。本当にうれしくて、毎日休みなく無我夢中で働いていました。もちろんやりがいはあった。見るからにお金持ちの一家、半年に一度だけお越しになる上品な老夫婦、わけのありそうな中年男性と若い女性、まだマナーのマの字も知らないような、若いカップル。それぞれがそれぞれの事情を抱えて、でもそこにいる時だけはみんな上等な服を着て、同じように食事を愉しむんです。どんな人にも最上級の時間を過ごしてもらうために、あたくしたちは必死でした。コックもウェイターもみんな含めて。いいお店でした。お客様の満足のために、あたくしたちは満足することなく常に次の段階を見つめていました。自分たちに百点を出せる日はなかった。ただ、その日に出せる全力の料理とサービスを受けて、最後にお客様がデザートを口にされる瞬間をこっそり覗く瞬間がたまらなく好きでした。あの笑顔のために、自分は存在するんだと思えた。けれどね、なんだかそこで働くうちに、だんだん疲れてきてしまったんです。体ではなく、心が。まず、毎日大量に出る廃棄を見るのが嫌でたまらなくなった。お客様の満足と引き換えに、どれだけの犠牲を払っているかという事実に気づいてしまったんです。そうすると、目の前で膨らむシュー生地も、とろけるチョコレートも、きらきら光るいちごも、全部が可哀想で見ていられなくなった。向いていなかったのかもしれません。何がきっかけでそうなったのか、あるいはあたくしは自分自身の成長という目標から、もっと違うことに目を向け始めたのかもしれません。そして、世間で叫ばれる『消費』という言葉が大嫌いになり、しばらくものが食べられなくなった。今のあたくしからは、想像できないでしょう?」ヨーテはほんの少し自慢気に話す。

 「そして、十年前の秋に唐突に皇鳥便を使おうと決めたんです。帰りはない、片道切符。これを使う者はほとんどいません。なにせ、得体の知れないものでしたからね。伝説の空島なんてものはなくて、皇鳥便に申し込んだ人はどこかで奴隷としてこき使われている、なんて噂もありました。それでもとにかくわたくしは、資本主義にまみれた地上から別の場所に行ってしまいたかった。死ぬくらいなら、有り金全部つぎ込んで皇鳥便を使おうと決めたんです。皇鳥便は高額な料金システムではありません。ただ、『有り金全部』なのです。地上では生きづらく、死ぬ思いをするような人か、よっぽどのおバカさんかしか来られないようになっているのです。皇鳥便は、お城の隣の大きな樹の下に到着しました。その時、たまたまお城に配達に来ていた小麦農家のハタさんに拾ってもらって、六年前にここへ仕え始めたのです。ここの生活にうまく馴染むまで、比較的時間がかかりました。けれど、ここの人々は満足することを知っていたし、同時にそれは何かと引き換えにもたらされているものなのだから大切にしなければいけない、というようなことを、無意識のうちにわかっていた。それがあたくしにはとても温かかった。王様とサンドラ様にはお話しましたっけね」

 「だから君に調理係をお願いしたんだよ」カードルは懐かしそうに微笑む。

 「あの樹、皇鳥便の停留所だったの。神聖な樹だから、近づくなって言われてたけど」ちょうどヨーテがレベッカのそばを通る時、レベッカが口を挟んだ。

 「皇鳥便の出迎えは、基本的に鳥一族がすることになっていますから。ヨーテが来た当時は規則が緩かったけれど、五年前のあの日以来、音楽の禁止やなんやかんやの事情をまず呑み込んで同意してもらうために、必ず鳥一族を通して入国するようになりました。だからほら、いつもあの木には鳥一族が誰か一人ついているでしょう」ルカが補足するように加えた。
 「おんがくって、なに?」スズが初めて言葉を習う子どものような問いかけをする。

 「音楽っていうのはね……」

 「ヨーテ」カードルが恐怖とためらいの混じった顔で彼女を制する。

 「王様、もういい加減、潮時ですよ。あたくしは、ここの音楽が大好きでした。地上にも音楽はあったけれど、ここみたく国民みんなが音楽を愛し、四六時中音楽が流れているような場所はなかった。確かに、フラスコにこもりきりの芸術家さんにとっては少しやかましいほどだったかもしれませんね。けれど、他の芸術と同様、いえそれ以上に、ここの音楽は人々の心を間違いなく癒していましたよ。ああ、恋しいですねえ。そろそろいいんじゃありませんか? もう音楽に怯えるのは」

 そう言ってヨーテは、ゆっくりとキベの作った大きなピアノへ近づいていく。

 「これもピアノなのよねえ。あたくしはおたまじゃくしがだめでね、ブルーベリーパイの作り方ならばっちりなんだけど」

 ぽろん。

 それは誰の許可もなく、ただ彼女の意志で唐突に叩かれた。

 ぽろん、ぽろん、ぽろん。

 美しい音だった。五年ぶりに聞くピアノの音色は、まるでこの部屋にないはずの窓から夕陽が射しこみ、その音を金色に染めているかのようにじんわりと響いた。

 「だめね、弾き方が全然わからないわ。このピアノ、地上のものと全然ちがうんだもの。かと言って地上のピアノだって弾けないんだけれど」

 ヨーテは諦めたように、けれどどこかすっきりしたようにこちらへ向き直った。

 「な、なにも変わりないか。変な感覚はないか。その、悲しみだとか嫉妬だとか恐怖だとか、そういうのを全く感じないというような……」

 「お父様、はいティッシュペーパー」レベッカが父のそばに寄って涙を拭いてやった。

 「嬉しさとか、楽しさとか、愛しさとか、そういうのも感じなくなっちゃうんでしょう? どうでも良くなっちゃうんでしょう? 夢の中にいると。あたし今、すごく幸せ。この音、久しぶりだあ」

 「ね、王様。音楽全部を禁止することはないのです。あれは、スズ様とホープ様の力で起こってしまったことなのです」
 がくり、と王が膝をつく。

 「みんな、すまなかった。すまなかった。国民に謝らねば。五年もの間、彼らから音楽を奪ってしまったことに対して」

 「それならこうすれば? あたし、この曲だけはピアノも弾けるんだ。きっとみんなに聞こえるよ」レベッカがピアノの近くに寄り、キーボードの上に手を置く。

 それからのことを、その場にいた者はあまり覚えていない。レベッカが、『シー・イズ・アナザースカイ』を演奏し、歌った。それは朔の心にじんわりしみわたり、同時に左手に疼きを感じた。

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最終章「四本目の世界へ」(朔 二十七歳)

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