【長編小説】『空色806』第1章「私の中から日々消えていくもの」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 どうしてあの子はなかったことになったのだろう。

一人では持て余してしまうような大きなベッドの中で、八歳になるスズは今日も失い続けていた。彼女だけの歌を。

まだ辛うじて思い出せる。歌える。
これは、いつかわたしの中から消えてなくなってしまうものなのかもしれない。

彼女は、自分の中から日々大切な何かが消えていく感覚を確かに覚えていた。
それは、妹が持っていたものと合わせて一つになるはずだった。幸せなものになるはずだった。

そこまで考えたところで、スズは伸びをしてため息をつく。
いつもと変わらない朝。世界。姉は覚えていないのだろうか?

確かにわたしと一緒にお母さんのお腹の中にいた、あの子。
あの時から、わたしはわたしの半分だけで生きている気がしている。あの子の奏でる音は、すごく心地よかったのに。

 同じ時、カードル王は城から180度反対の森の中にいた。
毎朝自ら島全体を見回るのが、王の日課になっている。
歩いてぐるりと一周して四時間の小さな島。もうすぐキベの小屋が見える。

五年前、キベが提唱した案は魅力的だった。国民全員が幸せになれる方法を、彼なりに考えたのだ。けれど、それは生きることを放棄することを意味するように、当時の王には感ぜられた。まだ彼は怒っているだろうか。

 ここから見上げる今日の空は、今にも窒息しそうな年老いた犬のように苦しげな様子で、どんよりと曇っていた。
周りの木々も、同じ色をしている。
4777番目の空色。ほとんど雨が降り出しそうなときに、ルルはこの色を選ぶ。

 ルルは、空に浮かぶ島であるこの「トラリア」が地上から見えないよう、毎日その日の空の色に合わせて島中の木の色を塗り替えている。
地上の人々は、ここを「伝説の空島」と呼ぶ。

かつては地上の人々との交流も試みたが、うまくは行かなかった。
ここの物質は地上ではあまり役に立たないものが多かったし、逆もまた然りだったのだ。

 気温がマイナス30度を下回る日が続く、燃える騎士の闘魂までも凍てついてしまいそうなトラリアの冬がもうすぐ終わる。

長く厳しい冬には、あらゆるものが試される。
鳥たちは飢え、凍え、その数を半分にまで減らす。
「不死鳥」と異名のつく皇鳥ですら、その一割は雪が溶け始める頃にはそのよく鍛えられた鋼のような体を地面に横たえ、土に還る。植物たちは冬を越すことを諦め、その短い命を種子に託す。

種は、倒れた鳥たちや自らの親たちからの養分を頼りに、芽を出す。
それまでには、あときっかり一週間、降り続く雨にその身を晒し続けねばならない。そうして、皆が待ちかねた春がやってくる。

 人々は、その「文明と社会性」という発明によって、経験値を積み重ねてきた。
おかげで、肉体的な頑丈さにおいては極めて脆弱な作りであるにもかかわらず、雨露をしのぎ、冬場でも食料を確保してきた。もはや人々にとっての「季節」とは、動物にとってのそれとは異なる。
それは、退屈とも思える毎日の中で今日もきちんと時が進んでいるのだという「しるし」であり、そこに直接的に生命の存続に繋がる意味はない。

 王はもう一度空を見上げる。
地上から見ると、空はもっと遠くにあるのだろう。
それとも空は遠すぎて、地上と空島の距離など誤差の範囲なのだろうか。

そうであればいいのに。地上とここが、さほど離れていなければいいのに。

何はともあれ、今日もトラリアは平和である。
ふと、国民たちの顔がよぎる。

あの演奏を聴いた者。
彼らにとって、ここでの生活は幸せなのだろうか。

未だに答えは出ない。しかし、歌と楽器を失ったトラリアは、目に見えて活気を失っていた。あの頃には騒々しくすら思えた人々の歌い声、トランペット、ギター、そしてピアノの音色。
愛しかった朝の静寂のひとときも、今では永遠に続く沈黙の線分でしかない。
線分は直線の可能性を秘め、この沈黙も終わりの見えない鍛錬のごとき重石を乗せかけている。

ほとんどわけも分からず音楽を奪い取られた人々は、音楽を求めていた。
それは、断崖絶壁に生える幻のキノコを求めた冒険家の気持ちと似ているのかもしれない。そのキノコが毒キノコだとも知らずに。
ジョーカーを目の前にするまで、まさか自分がババ抜きをしているだなんて思いも当たらないのだ。

 二時間半の巡回を終えた王は、沸き上がってきたわずかな罪悪感をきちんと元あった場所に収め、城へと歩を進める。愛する二人の娘がいる城へ戻るのだ。

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第2章(1)「思考は再開されなくてはならない」(朔 二十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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