【長編小説】『空色806』第2章(1)「思考は再開されなくてはならない」(朔 二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 とりたててこれという不満があるわけではないのだ、と彼女は再度心の中でつぶやく。
 死にたいほどこの世界が嫌いなわけではない。けれど、どうしてか息苦しいのだ。それは、ベルトコンベアーの行く先に吸い込まれないように逆走し続けるのに似ている。

じっとしているわけにはいかないのだ。
かと言って、早々に戦線を離脱し、ベルトコンベアーの隣に立って楽しそうに笑っている彼らのようにはなれないし、なりたいとも思わない。

彼らは走ることから逃げた人々なのだ。大切な何かを諦めた人々。

 けれど、わたしにとってそれほど大切なものとは何だろう? ここを走り続けていれば、ちゃんとそこに辿り着けるのだろうか。そのことについてはあまり考えないようにしよう。
ただ、どうにかして毎日が早く過ぎ去ってくれればいい。そうしておばあちゃんになって、静かに息を引き取るのだ。
そうしたら、何にも縛られることなく静かに眠れる。

 やっぱり期待は裏切られるよね、と思いながら、千本(ちもと)朔(さく)はふうっと、やや安堵に近い確信めいたため息をつく。

隣の席には、為にならないうんちくをべらべらとまるで朗読でもするかのように語る男と、それを愛おしそうに見つめる女。
店の外には、ぺちゃくちゃと喋りながら並ぶ若い男女の列。

そして店内は、珈琲が冷めるのもお構いなく、まるでそうすることが「いただきます」の代わりなのだとでも言わんばかりにパシャパシャとスマホのシャッターを切り、分厚いホットケーキを頬張り、最後に冷めた珈琲を申し訳程度にすするような客であふれていた。つまりそれは、今回もやはり彼女の淡い期待が外れたことを示していた。

 「さくらっちも絶対気に入るからさ、珈琲の美味いカフェ、好きだろ? 俺、めっちゃ探したんだからー。口コミとか見てさ」と、大学時代同じサークルに所属していた健太郎にしつこく誘われ、しぶしぶ出てきたのだった。
苗字も思い出せない目の前のこの男は、何やら熱心に話し込んでいた。

 「やっぱり俺の読みは外れてなかった。大繁盛。大当たり」

 全くおめでたい奴だ。こんな風に考えられたら、どんなにか生きやすいだろうか。

 確かに珈琲は美味しかった。酸味の少ない、深く濃厚な味わいは朔の好みに合ったし、挽きたての豆を、時間をかけてドリップしているというこだわりも感じられた。ひのきの香りがほんのりと心地いいテーブルと、その上に置かれた細長い四角すい型の深緑のメニュー表も、なかなか粋だった。

たった一つ、残念なことがあるとすれば、関南エリアのカフェを紹介する有名な雑誌で取り上げられたことが、この店の運の尽きだったのだろう。

 それでも、来てくれたお客さんを精一杯もてなそうとするマスターと、スタッフの女の子の姿は健気だった。
慣れない行列に戸惑いながら、それでも時間をかけて珈琲を淹れ、銅板でホットケーキを焼き、遅いと愚痴をこぼす客にいかにも申し訳なさそうな笑顔を振りまく。

その笑顔には、どことなく疲れが滲んで見えた。そこには、いつ終わるのかわからないこのブームが去った後、一旦離れてしまった常連がまた帰ってきてくれるのだろうかという不安感、それでも店をやる限り、来てくれるお客さんは一度限りの人でも腕を広げてもてなすのだという使命感、自らのこだわりと解離する店の評価への戸惑いなんかが複雑に入り交じっているようにも見えた。

 ここは、席が半分埋まっているくらいが魅力的なんだろうな、と店の経営に何の関係もない朔は身勝手に考えるのだった。わたしがマスターだったらどうするだろう、いや、わたしに店はできないな。わたしは好き嫌いが激しいんだもの。人も、食べ物も、空気でさえも。

そんなことを思いながら、朔は窓の外の行列を眺めていた。珈琲カップはとうの昔に空だった。

 「ねえ、聞いてる?」
 はっとして顔を上げると、健太郎が珈琲をもう一口すすっているところだった。冷めてまずくなってしまった珈琲が、まだカップに半分以上残っている。

 「あ、ゴメン、何?」朔はにっこりと笑顔を作り、彼の目を見る。わたし、案外接客業向いているのかもしれないな。

 「だーかーら。さくらっちはさ、いつになったら彼氏作るのさ? 興味ないのはいいけれど、君の周りには順番を待って列をなしている行儀の良い狼がたくさんいるんだから。わかってる?」

 わかっている。だから、面倒なのだ。男なんて、全員去勢してしまえばいい。
 そんなことは口に出さず、例の困ったような笑顔でかわす。

 「実感がわかないんだよね。ほんと、それだけ。今はそういう気分になれないの。あとさ、さくらっちはもうやめてよ。朔でいいから。そもそも、ユーコがわたしの名前を『さくら』だと思い込んでただけだからね。四年間もそのあだ名に付き合わされることになっちゃったけど」

 中身のない会話。こういう会話が、ただ繋がっているためのコミュニケーションには一番役立つことを、朔は経験から知っていた。

 「じゃあさ、朔さん。彼氏を作る気になったら、俺に連絡をちょうだい。俺だって、確変した時に玉を打ちたいからさ。意味わかるよね?」

 「健太郎、パチンコやるんだ」朔は、わざと軽蔑した目で目の前の男を見つめる。

 「違うって。勘弁してくれよ」健太郎はすっかりうなだれていた。

 彼氏を作る気になったら、というのはどういうことなのだろう。「かれし」という、ばく然とした抽象的な存在が必要となる時期が来るということだろうか。それとも、健太郎と恋愛関係を結びたくなる可能性があるということか。それでは、もし別の誰かと彼氏とか彼女とかになりたくなったとしたら、そういう場合も健太郎に連絡すればいいのだろうか。困ったことに、自分から人に連絡を取ることには慣れていないのだけれど。

 今日もやっと終わった。

繋げておく必要があるかもわからない、そんな「友情」を繋げておくための数時間。
一日のうち、これだけの時間を切り売りして、わたしは安心を買う。わたしにはたくさんの友達がいて、いつでも気軽にお茶を飲んで、愛されている。そんな安心感を、ぎりぎりのところで紡いでいる。

ばかみたいな低次元の話をして、くすくすと笑い合って、綻びかけていた友情の糸をちょっとだけ強く結びなおして、また何ヶ月先、何年先まで会わない彼らに手を振る。

友情を恋愛なんかに奪われてなるものか。

わたしが欲しいのは、程よい距離感。わたしはひとりじゃないけれど、わたしがひとりだけの場所を持てる関係。こんな友達なんて、きっといい迷惑だろう。けれど、みんなが求めてくれるから。愛してくれるから。

わたしはその期待に応え続けなければならない。わたしは「優等生」と呼ばれることにこだわっていた。

 もとめられるひと。あいされるひと。何か証拠が欲しくて、わたしは「三回誘ってくれる人としか会わない」と決めていた。

 カフェからの帰り道、健太郎に別れを告げ笑顔で手を振った後、やっと真顔に戻れたと言わんばかりに、彼女は思考していた。彼女の脳は普段、絶えず思考している。友人たちと他愛無い話をする時間は、唯一頭が休まる時間になる。彼女はこの不毛な時間を、それなりに愛していた。

 しかし、今日は違っていた。彼女は、すでにほとんど決意していた。特にこれといって決定的な原因はなかった。しかし、これではいけない、と頭が叫んだのだった。このままじゃ、いけない、と。何も決めていない今の生き方はいけない、と。誰かに導いてもらってばかりで、正解も不正解も、全部人のせいにしているのは。

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第2章(2)「思考は再開されなくてはならない」(朔 二十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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