【長編小説】『空色806』第2章(2)「思考は再開されなくてはならない」(朔 二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 一週間後、会社に退職届を出した。
朔がしていたのは文具のデザインの仕事で、要するに筆箱の形だとか、来年の手帳の中身だとか、ちょっと便利な文房具の発明(と言ったら大げさだけれど)なんかを手がけていた。

なにが気に入らないの、と上司が引き止めてくれたけれど、ほんとうのことを話してもきっとわかってくれないだろう。だって自分でもよくわかっていないのだから。
それに、実を言うと朔はこの仕事がわりと気に入っていた。静かなところと、流行ではなく使う人のことを考えたデザインが採用されるところと、飲み会が少ないところが特に気に入っていた。

 ほかの人には唐突に見えるかもしれないけれど、一週間、いやもっと前からそれなりに悩んだ結果なのだ。一言では説明できない。あえて一言で言おうとすれば、わたしはこの、「保身の人生」に飽き飽きしたのだと言うべきなのかもしれない。

 「わたしは、少し思考に集中する必要があるの。少なくとも半年くらいは。このままじゃ、おかしくなっちゃいそう。この世界は、あまり良くない方向に向かっている気がする。ただ、そういうことなの」

 お母さんにはほんとうの理由を話しておこうと思ったのだけれど、案の定不思議な顔をされ、そして悲しい顔をさせてしまった。

 「あなたの思考で、世界が救われるの?」この台詞を、もう朔は何百ぺんも聞いた。

 「あなたのその手で、また雇ってくれるところを見つけるのは難しいかもしれない」と、母は言った。朔には、生まれつき左手の指が五本ともなかった。でも、お母さんには悪いけれど、わたしのこの手が問題なわけじゃないの、と朔はいつもの手のひらを眺めて思った。どちらかと言うと、朔の手を見つめながらいつも申し訳なさそうにする母の目のほうがつらかった。

 わたしだって不安がないと言えば嘘になる、けれどこうするしかないの。ほとんどひとりぼっちになった気持ちで、静かに決意の炎を燃やしていた。

 結局、母はわたしが会社で精神的に参ってしまったのだと考えたらしい。母を傷つけたくなかった朔は、そのような結論に母が至ったことを半ば喜び、半ば絶望的な気分で迎えた。母は、どことなく育ちの良さを感じさせる人だった。何でも要領よくこなし、自分の決めたことはやり通す。それでも、どこか一歩引いたところから自分を見つめていて、いつもわたしに言いたいことがあるのを我慢しているみたいに見えた。

 わたしには、仲間がいる。

会社を辞めた時、朔は何かを思い出しそうだった。
探さなくちゃ。その人を探さなくちゃ。

そして、わたしは然るべき場所に行って、思考を再開しなくちゃならない。
そう、わたしの思考はそういえば中断されていたのだということを、それさえも忘れていたのだった。

 それから、朔は思考を始めることにした。
とにかく、その人が現れるまでは、行動範囲を広げながら思考を続けるしかない。

ある日は近所の図書館で、また違う日は電車で十五分北に向かったところにある、著名な画家の記念館で。自分の住む広川県を出て、隣の片原県まで足を伸ばした日もあった。

来る日も来る日も、朔は待ち続けた。毎日違った場所に行って、日がな一日、そこに座っていた。季節は桜の新芽が出始める頃で、長時間外にいることもさほど苦痛ではなかった。

 ひとつの場所にじっと腰を下ろし、目を閉じていると、実に様々な情報が朔の中に入ってきた。時間を遡り、この場所に往来する人々の様子。待ち合わせる男女。愛おしそうに花の手入れをする老人。

 そんな日々の中でも、思考だけに集中することは困難を極めた。公園の噴水のそばで思考を営んでいた時は、小さな子どもが来て水鉄砲で朔のマキシ丈スカートを濡らして行った。日が沈んだ後の駅の広場では、安っぽいスーツを着た金髪のアホ面たちが、順繰りに声を掛けてきた。
そして、どこからわたしが会社を辞めたことを聞きつけたのか、わたしの電話は旧友からの呼び出しで鳴りっぱなしだった。

 「ねぇ、意外だったよ。あんなに大企業だったのにさ」

 「やっぱり君は、組織になんて収まらずに、自分で起業とかしちゃうタイプだと思ったさ」

 「俺も会社辞めようかと思ってんだよねー。話聞かせてよ」

 結局、会社を辞めても完全な自由なんて手に入りはしないのだ。どこかで誰かがわたしに繋がろうとする。それはかりそめの繋がりなのだろうし、それを捨てきれずにへらへらと繋ぎとめようとしているわたしも、きっと中途半端なかりそめの精神と、未熟な肉体の結合体にすぎないのだろう。

 ちょうど十人の相手をしたところで、朔は電話をゴミ箱に捨てた。

 わたしは、きっと変になってしまったのだ、と朔はついに自分ですらそう思うようになった。

 普通に会社に勤めていて、それなりに自分の人生に満足して、一人前に社会に辟易したりして、それでもうまく折り合いをつけていたはずなのだった。今さら、この世界に無用な期待はしないと決めたはずだった。なのに、突然どうしてこうむくむくと内からの欲望が沸き上がってくるのか、さっぱりわからない。見たい。見極めたい。ここには、何かが隠れている。この世界には、表面からは見えない何かが隠されているのだ。

 何もかもを諦めて、流れに身を任せたいと思う時もあった。
しかし、朔はその内なる欲望の声に従うほかなかった。それは、ほんの些細なことだったように思う。

安定した暮らしは、ほんの少しの砂糖から、次から次に出てくる綿あめみたいに朔を絡め取ろうとしていた。
朔はただ、それを一本ずつほぐしていくほかなかった。甘い綿毛を舐め、脳が麻痺するような誘惑に身を委ねるわけにはいかなかった。

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第2章(3)「思考は再開されなくてはならない」(朔 二十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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