【長編小説】『空色806』第3章(1)「王の決断と奪われた音楽」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 「お帰りなさいませ、カードル王様」

 娘たちの教育係であるリセが王を出迎えた。彼は五年前まで、当時六十九歳という年齢でありながらも日々の鍛錬によってぴんと張った背筋を保っていた。それが、あの出来事以来すっかり肉体への興味が失せ、痩せこけた頬と曲がった背中が哀しく映る。いや、肉体だけではなく、彼はこの世界に所属する肉体と精神の営みを放棄してしまったかのように見える。しかし、本人は終始穏やかな笑みをたたえ、それが唯一の救いであった。

 この五年間、王は自分なりに彼らを元の状態に戻すべく方法を模索してきた。「フラスコ」の図書館にこもり、時間の許す限り来る日も来る日も調べ続けた。しかし、前例のない事態にやはり解決策は見当たらず、王は堅く鉄で錠をされた木の箱を思い浮かべてはため息をついた。代わりに、トラリアに一つしかないと思っていた、地上にアクセスできるエネルギーポイントの源がもう一つあり、そこからある特定の時空間にアクセスできる可能性があるということがわかった。

もっとも、もう一つのエネルギーポイントの場所もわからなければ、スズとホープの演奏による魔法のようなものの解き方もわからない。五年前に起きた、あの事件。しかし、妻のサンドラとホープに再び会うことができるかもしれないという可能性は、王を少なからず元気づけた。
ホープ。私の三番目の娘。

 トラリアの城は、城という言葉が連想させるほど大きくはない。作りは地下一階、地上二階建てのロの字型で、部屋数は十八。それぞれが寝るための部屋と、キッチンや浴室、遊技場と会議室、国中が見渡せる屋根裏の書斎がひとつ。王は、この狭苦しい書斎が時に気に入りだった。昔から狭いところにいると、妙に気分が落ち着いた。だから、サンドラとの寝室は子どもたちのそれよりも小さかった。

 「一国の王様ともあろう人が」そう言って困ったように笑うのが、妻の癖だった。笑った時に右の頬にだけできるえくぼが、大好きだった。

 サンドラがいなくなってから、王はもはや寝室で眠ることはできなくなっていた。妻を失った喪失感というよりは、二人分の広さを持ったところで眠るということ自体が、王を混乱させた。以来、王はずっとこの書斎で眠ることにしている。

 「ほら、雪解けの合間から、ロウコノが芽を出していたよ。昼食はこれでポタージュを作ろう」そう言って王は、城に入ってすぐ右側にあるキッチンに顔を出した。中では、調理係のヨーテが昼食の五穀パンをせっせとこねているところだった。料理をすることも食べることも大好きな彼女は、丸々とした体つきをしていた。特に体型を気にする様子でもなく、とにかく毎日本当に美味しそうに、幸せそうに料理を口にするので、みな彼女と食卓を囲むと幸せな心地になれた。そんな彼女を、城の者はときどき「たまごさん」とからかったりもした。

 「あら、王様おかえりなさい。そうですか、もう冬が終わるのですね。ロウコノは、テンプラという料理にするのがおいしいのだそうです。もしそれが、地上で言う『フキノトウ』という植物と同じか、似たようなものだとしたら」

 そう言って彼女は、ルカが地上から持ち帰ったと思われる料理本を目で示した。「和食で料理女子をアピール!」と本の帯にそう書かれていた。

 「任せるよ。君の料理は、いつも間違いなく美味しい。この世の中で唯一完璧性を誇るのは、数学の定理と君の料理の腕くらいだと、心から思うよ」

 「あたくしにも失敗はありますのよ。食卓にそれを見せないだけで」
 そう言って「たまごさん」は王にウィンクをした。

 王はいつものように屋根裏の椅子に腰掛け、郵便物と荷物の点検をする。この紙やらなんやらが混ざった匂いが、王は好きだった。そして、それらを紐解いている瞬間は、まるで宝箱の箱を開けるようなわくわくした心持ちになる、と言ったら大げさかもしれないけれど。

トラリア城には、二つの別館が存在する。この本城の書斎から見て南東の方に位置する塔には、鳥一族たちが住んでいる。この島に足をつけている全ての生物の様子を感知することのできる彼らは、国の安全管理を任されている。
同時に、国内外の手紙のやり取りやささやかな貿易にも一役買っている。空を飛ぶことのできる彼らは、地上との行き来が自由にできる。そのため、地上から珍しい品を持ち帰ることもしばしばあるのだ。

空の領域を離れてしまったトラリアの品は、地上ではあまり役に立たない。それは逆もまた然りだ。王はこの事実を何度も確認し、残念に思う。けれど、このように限られた範囲の中で彼らが持ち帰る品は、この島の人々を喜ばせた。それは、音楽を失ってからというもの、人々のほとんど唯一の娯楽として、いつも心待ちにされている。

 そして、その塔の一階にはルルが住んでいる。彼は、鳥一族に生まれながらも生まれつき羽根の一部が上手く機能しない。羽根を広げるとき、どうしても右の羽根の中にある骨が上手く広がらず、ほんの僅かだが左の羽ばたきの力が強くなりすぎてしまうのだ。空を飛ぶという行為は、左右のバランスが完璧に保たれていないと成り立たない。
その右の羽根のためにルカのような仕事ができないことを、彼は長年気に病んでいた。しかし、彼は色彩を見極める能力が抜きん出ていた。そして、それは空の色に限られていた。空色ばかりを五千通りもの色彩で、彼は見極めることができた。

 「島を空に隠して欲しいの。外との交易を最小限に留めることを決めた今、それは鳥一族の仕事よりも重要かもしれない」
 そう言い出したのは、サンドラだった。

彼女は、どんな能力でもそれを最大限に発揮できるフィールドを見つけ出すことを得意としていた。全ての者には唯一無二の能力が備わっていて、そのどれもが現実的に評価されるべきなのよ、と彼女はよく言っていた。哲学者の祖父に育てられた彼女は、目に見えないものの価値を強く信じていた。どんなに世界が理不尽で、認められない者の存在があろうと、彼女のその姿勢は変わることがなかった。

 天職を見つけたルルは、二つの重要な仕事をこなしながら忙しい毎日を送っている。

 ひとつめは、朝早くにその日の空模様に合わせて街をぐるりと囲む白樺の木を塗っていくこと。真っ青な晴天の日から、日がな一日家にこもりたくなるようなグレーの雨の日まで、空の色はほとんど無限通りに広がっているのだと彼は言う。自分は、その中から便宜的に五千の色を引き出しているに過ぎないのだ、と。

 「空は刻一刻と色を変えるのです。けれど、それらを全て反映していたら、塗っているそばから色を変えていかなくちゃならない。そんなことをしたら、仕事仲間たちから不平が出てしまいます。彼らは、私が生まれて初めて出会えた本当の仲間ですから。私を認めてくれる、大切な仲間なのです」
 そう言って、ルルはもう広げられることのない右の羽根をちらりと見て、自分の両手をいっぱいに広げた。

 違うのだ――と王は言いたかった。ルカたち鳥一族は、お前を認めていた。仲間として、受け入れていた。

 けれど、王は何も言わなかった。自分を鳥一族の一員だと認めていなかったのは、誰でもないルル自身なのだ。彼は、「欠損のあるかわいそうな庇護の対象」ではなく、「役に立ち、一目置かれる存在」を自らに求めていた。そうすることで、ようやく自分を許すことができたのだろう。

 もうひとつの彼の仕事。それは、鳥一族が毎日身に付けるポンチョの製造だ。彼らがうまく空の色に馴染めるよう、一族の身を守れるよう、ルルが言い出した提案だ。いつか「鳥」や「飛ぶ」という言葉を聞いた時にルルの目に一瞬浮かぶ怯えの色が消え、一族を仲間と呼べるようになることを願いながら、王は書斎の郵便物や小包をひとつずつ開けていく。
すぐにそこらは、ルルからの月間空色レポート、街で起こった犯罪の報告書、鳥一族が持ち帰った品の一覧などの資料でいっぱいになった。先日村へ出かけた際に特注しておいた万年筆の包みを開け、早く書き心地を確かめたい気持ちをこらえながら、資料に目を通してゆく。

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第3章(2)「王の決断と奪われた音楽」(王 四十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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