【長編小説】『空色806』第3章(2)「王の決断と奪われた音楽」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 城を挟んで反対側に存在するもう一つの建物は、地下一階と地上一階の平たい作りだった。地上には毎日王の書斎に届けられる資料を含む、トラリアに関するあらゆる資料が保管されており、それらの管理はソメイとヨシノという男女の双子が管轄していた。彼と彼女はまだどちらも七歳だったが、両親が作家とデザイナーで、ほとんどフラスコに入り浸っているものだから、城で一緒に住まわせているのだった。この国から音楽が失われてからも、多くの芸術家は「フラスコ」の中に留まっていることを選んでいる。

 芸術家たちは、自分の世界を究めていく欲求に従うことと、即物的で実際的な事柄(子どもを育てるだとか、食事を摂るだとか)とのバランスにいつも頭を悩ませる。人間にとって、肉体や時間が有限であることを嘆き、だからこそ見えてくる美しさを彼らは「芸術」と呼び、追い求める。それは論理性を超え、感覚的に遂行される本能の営みなのだ。

 犯罪が増えている、と王は報告書を見ながら独りごちた。暗く寒い冬は、人々の心が荒びやすい。暖炉のある家で温かいシチューを囲むことのできない環境にある者は、ちょっとした悪意が自分の心につけいる隙を与えてしまう。特に、音楽を禁止してからその傾向が強くなった。終わりのない沈黙と凍えは、人々の心にある井戸を枯らし、その上から重く哀しい氷の石でぴたりと蓋をする。それはもはや、自分の力では除けようのないものなのだ。

 けれど、もうすぐこの国にも春が訪れる。春が来れば、氷の石は少しずつ溶け、渇いた井戸を少なからず潤してくれるはずだ。

 そして、王はひときわ大きな包みに手を付けた。ざらりとした、逆立った鱗に身を横たえるような予感が頭を貫く。その予感は外れず、今日の届け物は木琴とフルートだった。そこには、やはり例の手紙も書き添えられていた。

 王様
何度もお手紙を差し上げる無礼をお許しください。私は決して、己の職業的不利益からこのようなことを申し上げるのではないのです。トラリアは今、病んでいます。国民は音楽を求めています。確かに、あの時スズ様とホープ様の演奏を聴いた国民たちは、傍から見ていくらかおかしなことになってしまいました。それで、国民たちも音楽が失われることにしぶしぶながらも納得したのだと思います。けれど、私の見地からすると、あれはスズ様とホープ様、お二人の力があってこそでした。歌や楽器そのものに罪はありません。

 それに、あの演奏を聴いた者たち自身は、決して不幸になったわけではないのです。彼らはみな、口を揃えて今の状態が良いというのです。王宮に仕える私の兄は、長年の希望をついにその手にし、その永劫続く美しさに身を委ねているのです。従って、王様はご自分を責められることはない。国民の生活を幸せにするというあなたの信念が、ほんの少したりとも汚されたわけではないのです。

 生きることの幸せと苦しみの両方を感じることが、長い目で見ると国民にとって良いとお考えになるのならば、せめてささやかな音楽の幸せだけでも与えてはもらえまいだろうか。王とは、人の上に立つということは、少なくとも自身の意図するところにおいて人々の最大限の幸福を願うことではあるまいか。
                              キベ

 スズやホープにも罪はないのだ――と王は思わずにはいられなかった。誰にも罪はない。全ては、この世界が有限であることに起因しているのだ。人の命、食べ物、財産、体力。永遠に続くように思われる時間でさえも、それが過去から未来に向かって流れるものであるかぎり、有限なのだ。有限の流れの中には、争いがあり、喪失がある。同時に、慈しみがあり、達成がある。無限に流れは存在しない。ただそこにあるのは、無だ。有限であるかぎり誰もが満たされることはあり得ず、無限であればそこに渇望はなく、従って満足は存在しない。

 それは、五年前の出来事によって職を失った、元楽器店の店主からの手紙だった。近ごろは鍛冶の仕事を始めたと聞いている。リセの双子の弟にあたる彼は今、城から見て島の真反対に住んでいる。キベの憤りがどこから来ているのか、王は承知していた。彼は職を失ったことを憂いているのではないし(あるいはそうかもしれない)、それによって国の庇護を受けていることを辱めと捉え卑屈になっているのでもない、おそらく。

 彼は、兄を見ていた。兄の変化を目の当たりにしていた。そしてそれを、大いなる肯定でもって出迎えた。多くを望まず、欠けた右目による不自由な視界に耐え、二代に渡って王に仕えている。そんな兄が、それほどまでに幸福感をにじませる様子を初めて目にした。キベは、この国で数少ない、例の事件の肯定派の人間だった。五年前、彼は王に提案した。

 「私に皇鳥の羽根を使ったピアノを作らせてください。それは、この国中に響き渡る音色を持つピアノになります。スズ様とホープ様の演奏をこの国の者みなに聞かせてやりましょう。国民全員が同時に幸せを手に入れられる機会は、そう巡ってはきません。これは、神がトラリアに与えてくださった贈り物です」

 王は首を縦に振らなかった。

 これも資料倉庫の地下に入れておこう、と楽器でいっぱいになった、城の北側にある塔の地下室を思う。私とて諦めているわけではないのだ。またこの国に音楽と歌声が溢れる時が来ると信じている。

 そうして事件は、何の前触れもなく起きる。五年前のあの時と同じように。

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第4章(1)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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