【長編小説】『空色806』第4章(1)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 その日、朔は図書館に来ていた。

 朔の住む街には、国内有数の蔵書数を誇る図書館がある。本好きの資産家が、亡くなる前に全資産をつぎ込んで作ったというこの「アーチュライブラリ」には、その資産家の主観でジャンル分けされた、一千万を超える本が行儀よく並んでいる。それらの本は、「宇宙」「自然」「愛」「経済」「料理」「世界」「成長」「生死」「医療」「技術」「内向的余暇」「外向的余暇」「こころ」「言葉」の十四のジャンルに分けられ、それぞれのコンセプトに合わせた部屋に配置されている。

 例えば、「宇宙」の部屋には、太陽系が描かれた壁の中に埋め込まれるようにして本が並び、真ん中には宇宙ステーションをかたどった本棚の中に、あたかも無重力空間に浮かんでいるかのように本が置かれている。希望すれば、スペースシャトルを模したイートインスペースで宇宙食を試食することもできる。子どもたちが夏休みの自由研究でよく使う部屋だ。

 一番広い「自然」の部屋は特に人気があった。一面の天然芝で覆われた小高い丘の上には、ハンモックの読書空間が八つ用意されている。小さな滝から流れてくる川には、本物の魚が泳いでいて、人々は小川のせせらぎを聞きながら読書を楽しむことができる。この部屋の隅には、鹿島の縄文杉をイメージした空間も設けられており、太い杉を模した本棚に寄りかかり、おにぎりを食べながら読書を楽しむのが最近流行っているらしい。

 「外向的余暇」とは、いわゆる旅行ガイドの本や、趣味としてのスポーツ本などが並べられている部屋だ。

 「内向的余暇」のスペースには、日本文学も海外文学も、古典文学も現代小説も入り混じったありとあらゆる小説が集められている。ふかふかのクッションが敷かれたたまご型の空間が四十七つ用意され、好きな本を持ち込んで誰にも邪魔されずに好きなだけ自分ひとりの時間を楽しむことができる。もちろん、どこか別の部屋にある本を別の部屋に持ち込んで読むことも許可されている。

 このように、この街のかなり変わった図書館は観光地としても人気があり、円安の追い風を受けて海外観光客も増えている。ここができてからというもの、朔の住む街も随分と活気が出てきたように思う。さらにこの図書館には、各分野に精通した司書が五十人もいて、利用者の要望に合わせて本を勧めてくれる。彼らなくして、この主観の塊みたいな図書館は成立し得ないだろう。

 「お久しぶりです、朔様」と、その鳥の人は言った。

 その人が現れた時、朔はちょうど「解なし」の部屋にいた。この十五番目の部屋には、どのジャンルにも分けられなかった本が、ごちゃまぜに置いてある。朔が開いていた本は、フルマラソンでゴールに向かって歩を進める度に何か大切な物をどんどん落としていくという、一人の男の果てしない喪失の物話だった。そこには、なんの救いも存在しないように思われた。

 その本の382ページ、「人生はマラソンに似ている、なんて誰が言い始めたのだろう。私の人生では、喪失はあるいは獲得と同義だった。ところがどうだろう、このマラソンでは〜」という部分に来た時、バサバサという音を立てて本のページが捲れた。いつの間にか目の前に立っていたその人は、まさに鳥と言ってしまって差し支えないような格好をしていた。

 肩の少し上で綺麗に切りそろえられた漆黒の髪は、風に吹かれても少しも乱れることはない。彼ら一族の誇りでもあるその髪は、十二歳になる時に肩の上に切りそろえられる。男女関係なく、というか、彼らには男女の区別がない。

 彼らが死んだ後、その亡骸は新しい命を産みだす源となる。全く違う生命として生まれ変わるのだ。不死鳥とは違う。そのようにして、彼らは個体数を守っている。

 目は上につり上がっているが、それでいて相手を威嚇するような目つきではない。そこには、ある種の「赦(ゆる)し」や「包容」のような柔らかさすら感じられる。くちばしのように見えるそれは、実はサイの角のように尖った大きな鼻であり、口はというと、シャープなあごの上にくぼみのようにしてちょこんと乗っている。そのせいか、彼らは随分と少食なのである。そして、流れるような髪から覗く左耳。顔の半分はあろうかというその左耳は、まるでホルンのような広がり方をしている。もっとも、ホルンはここから空気を出して音を奏でるのに対し、彼らのそれは音を吸い込んで認識する。それが耳の機能であるのだと言わんばかりに。右耳は? 右耳は、いつも髪の下に隠れている。本当は、右耳はないのだと囁く者もいる。

 体全体が、あごのすぐ下まですっぽりと覆われているのは、目も覚めるような空色のポンチョを着ているせいだ。それは彼(と仮に呼ぶことにする)の膝のあたりまでを、まるで開いた傘を立てたみたいにふんわりとしたシルエットに見せている。そこから突き出る足は、異常なまでに細い。折れてしまいそうな二本の足は、彼の傘らしさをより際立たせているようにも見える。

 「ルカ、あなたのことを今の今まで忘れていたみたい。まだうっすらと靄がかかっているようなのだけれど」
 朔は読みかけの本を胸の前で抱えながら言った。

 先ほどからチクチクと頭の右側が痛む。目の前のこの人が「ルカ」という人物だということ、彼が昔、自分の住んでいたところの住人であったことは知っている気がした。けれど、それが一体何を意味するのか、朔の生きてきた平凡な二十七年間とどう関係があるのかは、いくら考えても答えが出そうになかった。わたしはわたしであり、わたしでない。朔は朔であり、別の誰かでもある。高校の頃に数学の授業で聞いた論理式が、ふと頭に浮かんだ。きっと今は、ド・モルガンの法則は役に立たないだろう。

 ルカの空色のポンチョが、やけに朔に訴えてくる気がした。

 「大丈夫です、国に戻れば、きっと思い出せますよ。それよりも、やっとこの世界に繋げることができた。随分とお待たせしてしまったようです。わたくしたちの世界では、まだあなたが降りてから五年しか経っていないというのに、あなたはここではもう、成熟した大人の女性になってしまいました。2035年の今しか、地上とトラリアを繋げることができなかったのです。あなたに羽根があれば、そのまま飛んでいただけるのですが。さあ、行きましょう」ルカは一気にまくしたてた。

 「ちょっと、ちょっと待ってよ。もっとちゃんと説明してくれないとわからない。わたしは今からどこかに行くの? 家族はどうなるの? それは、わたしが仕事を辞めてしまったことと関係があるの?」

 「朔様が仕事を辞めたのは、あなたご自身の意思です。あなたは小さい頃から繊細で、負けん気の強いところがありましたから。頑張り屋さんで、いつもお姉様に勝負を挑んでおられた。お姉様のレベッカ様は優秀なお方ですからね。今のところ、朔様が二勝五十三敗の負け越しです。あのまま勝負が続いていたら、どうなっていたのでしょうね」

 そう言って寂しそうに微笑むルカを、朔は混乱の中で見つめていた。

 もしも全く思い当たるところがなかったら、目の前の奇人を見なかったことにするか、警察に突き出すことができたろう。しかし、朔の中の何かがこの人物を知っていた。そして、このポンチョの空色も。今日の空色は、806番目の色だということも知っていた。見慣れた色だ。ルルは、今日みたいな晴れの日には大体いつもこの色を選ぶ。五千もある空色の中から、几帳面に一つひとつ選んでいくのだが、いつも同じところに落ち着くのだ。

 「レベッカお姉様、ルカ、ルル……あなたたちは一体誰なの? わたしは、誰?」

 「ルルのことまで思い出しておられるなら、話は早い。とにかく、今は詳しくお話している時間がないのです。とにかく、今トラリアの本体がある時空間に入り込んでしまわねば、もう取り返しがつかなくなる。事情は後ほどご説明します。こちらのご家族のことも、わたくしにお任せください。受け入れられないお気持ちは十分にわかりますが、とにかく今はわたくしについてきていただきたいのです。ただし、無理強いはいたしません。こんなにもお待たせしてしまったこちらに落ち度があります。こちらの世界での生活が、朔様にしっくり来られているというなら、致し方ないのです」

 目の前の鳥のような人は、そう言ったきりうつむいて黙りこんでしまった。

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第4章(2)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
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