【長編小説】『空色806』第4章(3)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 一番北側の二階の部屋は、「医療」の部屋だった。病院のようなものかと思ったけれど、外からちらりと見た限りでは、それはヒトの肉体的、精神的解明を目指している冒険者の部屋のようだった。そして廊下の果てに忘れられたように存在する、館内で唯一の薄暗い場所と言っていいくらいの階段には誰もいなかった。それでもなるたけ気配を消しながら一階に到着すると、「自然」の部屋に続き図書館二番目の目玉である「科学」の部屋の裏側に出てくる。

 そこには、本を頼りに実際に科学実験を楽しめるブースや、年表を辿るように階段状に並んだ科学者の伝記、人も乗ることのできる巨大な天秤に吊るされた本棚などがあった。中でも、物語の世界に自分が入り込んでいるように読書が楽しめる体験型のサービスは、ここにしかない目玉技術だ。

 先ほどの医療の部屋と合わせると、人類の生活に物理的に必要な知識はほとんど揃ってしまうように思われた。朔は改めて、人類の歴史における理系分野の貢献の大きさに思いを馳せ、政治家やビジネスマンがテレビカメラの光を浴びる裏側で、研究に没頭してきた白衣の戦士たちに敬礼した。

 さらに階段を降りると、そこには陽の光の届かない空間が広がっていた。陽は届かなくとも廊下は十分に明るく、決して少なくない人々が各部屋から出入りしていた。手前から「生死」「愛」と部屋が続いている。人間の生き死にと愛は、いつも隣り合わせということだろうか。それは単なる深読みに過ぎないのだろうか。

 朔はついに、これまで足を踏み入れたことのない「生死」の部屋の前に立った。瞬間、少年とも青年ともつかぬ年頃の人物が、さっと朔を横切って行った。彼は何を思い、この部屋を訪れたのだろう?

 勇気を持って踏み込んだそこは、敬遠していたほど重苦しい雰囲気ではなく、また「医療」の部屋とも少し違った印象を持っていた。部屋に入ってすぐ右の円柱型の本棚には、『生の実感と思考』『死と無意識状態』『人はどうして死ぬの?』『生の一歩先は死』などの本がぎっしりと並べられていた。そして、その内側には瞑想用の御座が一枚ひいてあり、内側に本は一冊もなかった。ガラスケースに入ったロウソクが、ゆらゆらと揺れているだけだった。

 朔は小学生の頃の理科実験を思い出す。マッチを擦り、ロウソクから突き出る紐に炎を灯す。そして、ガラスの容器で蓋をしてしまう。限られた分量の酸素を使いきった炎は、いともあっけなく鎮火してしまう。ある人の家を、人生を、時にその人までも焼いてしまうことのできる火が、これほどまで簡単に消えてしまうことに、幼い朔は驚いた。同時に、今度火事が起こったら、大きなガラスケースに炎を閉じ込めてしまえばいいのだ、と大発明をしたような気分になった。けれど、その実験の時に目の前で消えた炎は、ちっとも悪いことをしていなかった。朔たちの勝手によって灯され、すぐさまガラスケースに閉じ込められて窒息した。それは、草の裏からナメクジをほじくり出して、興味本位で塩をかけてしまった時の背徳感に似ていた。

 今、本棚の内側で朔の目の前にあるロウソクは、悟りを開いた老僧のような静けさをもって鎮座していた。きっと、どこからか酸素が補給されているのだろう。ほんの少しずつちびていくそれは、資本主義の産物である建物の中にあるとは思えない、禁欲的な佇まいをしていた。

 その部屋は、首を一振りすれば部屋の端から端が見渡せてしまうくらいの大きさだった。

 ―この図書館の「生死」の部屋に、大きな髑髏(どくろ)を模した本棚があるのはご存じですか?― 朔は先ほどのルカの言葉を思い出し、髑髏の本棚を探した。

 その本棚はすぐに見つかった。シンプルなスチール製の本棚が並ぶ部屋の奥の方に、髑髏と人間の顔が後ろ合わせになった気味の悪い本棚が置かれている。少し屈(かが)んで入らなければならないその本棚を見て、どういうわけか朔はいつかテレビで目にしたかまくらを思い出した。雪でできているのに暖かく、その中で火鉢にあたりながらみかんを食べるのだ。目の前の不気味な骸骨とは到底相容れないその牧歌的な光景は、奇妙な違和感と整合性の中に朔を置き去りにした。

 実を言うと、「生と死」と名の付くくらいだから、この部屋はもっとおぞましい光景が漂っていると思い込んでいた。そこには墓があり、死刑台があり、いかにも幽霊が出そうな薄い靄(もや)がかかっているのだと。しかし、目の前に広がるそれはもっとシンプルなものだった。髑髏と言うと、どこかしら象徴的な血なまぐさいイメージがつきまとうが、そこにあるのはただの大きな頭蓋骨に過ぎなかった。もちろん模型であるだろうけれど。その骨と生身の人間の頭との違いは、ただそこに肉があり、脳みそがあり、目の玉が入っているだけだった。こうして見ていると、肉体的な死に限って言えば、生と死の間にはさほどの隔たりはないように思われた。人々は血の流れる肉体の消滅ではなく、己の精神が消え去ることを恐れるのではないか。それはまた逆に、肉体的に生きながらにして精神的に死することも可能にしているのではないか。

 そんなことを考えながら、朔は頭をひょいと下げてその本棚の内側に入ってみた。階段を数段降りたそこは、あの小さなかまくらのどこにこれほどの本が入りうるのだろう? という新たな疑問を朔に突きつけた。あるいは、ここはすでに歪んだ時空の狭間にあたるのかもしれない。それが、本棚の内側を相対的に押し広げているのだ。

 コナ・ハンソンという人は、その一冊だけしか本を書いていなかった。おかげで、探すのにかなりの労力を要したが、目当ての『不老不死は可能か?』という本は、貸出中ではなく無事にそこにあった。

 いったい、どれほどの人がこの本に興味を持ち、実際に借りて行くのだろう? 普通に生活している分には、朔にとっては縁遠い本だった。そもそも、二十七歳の健全な会社員のうち、果たしてどれだけの人が「死」を間近に感じることがあろう? 不老不死に興味を持つだろう? しかし、その無限の割り算もゼロにはならないのだ。数%の数%の数%がたとえ一人であっても、その世界はれっきとして存在する。

 朔は、もう一度注意深くルカの言葉を思い出していた。

 「その本の表紙に描かれた鳥の右目を三秒間見つめた後、髑髏の本棚の左目にあたる穴を内側から見つめながら重力を感じてください。体が重くなったら、少しだけ飛び上がってください」

 飛び上がる? 朔はそこで再度、その違和感に気づいた。

 いったい、どれほどの人がこの静かな図書館で――いや、やめておこう。前例や可能性の話は、時として役に立たないのだ。自分でも驚いたことに、もうそこに迷いやためらいはなかった。何も起こらなければ、それはそれでいい。また新しい仕事を探し、気のいい友人たちとほとんど無駄とも思われるおしゃべりをこなし、この指のない左手を抱えながら、あまり期待せずに生きていこう。

 「人生に無駄なことなんてひとつもないんだよ」

 お母さんはわたしにずっとこう言い続けてきた。効率よく世渡りをし、意味のあることだけを好んだわたしという娘を、母なりに諭そうとしていたのかもしれない。

 今日はやたらと昔のことを思い出す日だな、歳なのかな、と朔は苦笑した。

 確かにその本の表紙には、鳥の絵が書かれていた。本の裏表紙の説明には、「皇鳥」と呼ばれる不死鳥のような生態系を持つ鳥がおり、それは厳密には不死ではないこと、著者はその皇鳥の生態を探りながら、人間に限りなく不老不死に近い肉体をもたらそうと研究している人物だということが書かれていた。

 朔は注意深くその鳥の右目を見つめた。

 いち、に、さん。

 そしてすばやく髑髏の右目を内側から見る。内側から部屋を見渡すと、幸いにして今この部屋の中には朔一人だけのようだった。

 間もなく、頭、肩、両手に重みを感じた。床についている両足がめり込んでいくかのような感覚があった。まるで見えない小人たちが朔の細胞一つひとつを抱えて、地球の中心に向かって綱引きしているように。普段意識することのない重力が、朔に思い出してもらうべくその重力らしさを総動員しているように思われた。声を出そうにも、喉の奥が重くて呼吸すらままならないのだ。

 この状態で飛び上がるなど、とてもできそうにないと思いながらも、朔は最後の力を振り絞って両足を床から離した。それは、飛び上がったというよりはむしろ、足を折り曲げることによって床から一時的に足を離しただけという方が正しかった。

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第4章(4)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

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