【長編小説】『空色806』第4章(4)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 当然の成りゆきとして、朔は床に尻餅をついた。

 こんな時に「いたーい」と声を出して言えるほど、実際の人間は冷静ではない。うっ、と一瞬息を詰めた後、無言で立ち上がる。そこにはもう、先ほどのような暴力的な重みは感じられなかった。

 そこから見える景色は、先ほどから変化を見せていなかった。髑髏の内側に、地面から少し窪んだ形で本棚があり、そこに生死にまつわる本が並んでいる。

 そう、朔が主人公のお伽話は、ここで終わったのだ。想定の範囲内だ。ルカはなんと言ったろう?

 ―そうすれば、全てうまく行きます―

 全てうまく行く? その曖昧な励ましは、いったい何を意味したのだろう?

 後悔はない。

 「やらない後悔より、やる後悔」これは、朔の姉の口癖だ。

 姉? と朔は思い直した。朔は一人っ子だ。姉はいない。では、今わたしの頭をよぎったあのポニーテールの女の子はいったい誰だろう?

 その時、髑髏の目から見える部屋の扉から、一人の老人が入ってきた。その扉はギギギと音を立て、まるでお伽話に出てくる古びた木こり小屋に申し訳程度に付けられている木の扉のように見えた。そして、それは実際に古びた小屋と外を隔てる一枚の木の板だった。注意深く目を凝らすと、髑髏の外側に広がる光景は、先ほどまでのスチール製の本棚たちではなかった。老人が今しがた入ってきた扉のそばには、帽子や鞄を掛けておくためのかぎ針のようなものが四本ばかり壁に突き刺さり、その下には靴を並べておくための絨毯が敷いてあった。

 老人は、すぐに朔の視界から外れてしまった。髑髏の右目から見える景色は、朔にその空間における限定的な情報しか与えてはくれなかった。

 その時、何かがひっかかった。いや、朔の記憶の片端を何かが蹴飛ばしたという方が近いかもしれない。―髑髏の本棚の左目にあたる穴を内側から見つめながら重力を感じてください―

 そこでようやく気付く。朔は手順においてミスを犯したのだ。あろうことか、右と左を取り違えてしまったのだ。しかし、鳥の絵の右目だとか髑髏の左目だとか、ルカの指示には故意的に混乱を起こさせる複雑さが含まれていたように思える。そう思うと、少しむっとした。

 「あやまちを犯す人間は、たいてい責任を人になすりつけるものだ」

 これは、朔の勤めていた文房具会社の上司が気に入って使っていた言葉だった。彼自身は、決して責任を他人になすりつけようとはせず、部下の責任まで自分で取ろうとする人だった。そして、自分は可能な限りミスを犯さぬよう、いつも細心の注意を払っていた。そんな真面目で優しい上司は、ある日突然会社に来なくなった。ある種の完璧主義性は、この世界においてはうまく機能しないのだ。朔はその時、現実にかける最後の期待を捨てた。

 ところえ、いま朔に必要とされているのは、ルカへの憤りでも上司への哀れみでも世界への諦念でもない。目の前で起こっている事態を理解する冷静さだ。朔は努めて冷静になろうとした。

 わたしは家の近所の図書館にいた。すると、なぜか見覚えのある鳥人間が目の前に現れ、わたしをもともとは異世界の人と呼び、そこへのアクセス方法を教えた。そして、わたしはそれをそっくりそのまま実行に移し――ある一点のあやまちを除いて――、おそらくは別の時空間に入り込んだ。となると、ここでの自分の立ち位置を把握しておく必要がある。

1,ここは西暦何年、何月何日の世界なのか?

2,わたし(あるいはわたしという人間の数年前か数年後にあたる人物)は今の自分とは別にこの世界に存在するのか?

3,先ほどわたしに会ったルカはここにいるのか?

 どうしてこれほどまでに冷静になれるのか、自分でもわからなかった。きっと人間は、自分のキャパシティを超える異常事態が発生した時、体のどこかにある「緊急時対応ボタン」のようなものが押されて、慌てふためく機能がガチャリと音を立てて錠をされ、生き残るのにスマートな形態に形を変えるのだろう。とにかく、情報を集めねばならない。今の状況から判断するに、朔は小屋の中の老人に話を聞く以外に選べる方法はなさそうに思えた。

 三段ほどの階段をおそるおそる昇り、頭を屈めて髑髏の右のこめかみあたりから出る。ここまでは、さっきまでと全く同じ巻き戻しの作業だった。ここで頭を上げると先ほどの図書館の部屋に戻っていたら、と想像してみる。朔は自分が何を望んでいるのか、よくわからなかった。

 幸か不幸か、そこは髑髏の右目から見た小屋の中だった。誰かがここにいる。思いのほか小さな小屋で、その老人が朔を認めるまでに二秒とかからなかった。

 老人ははじめ、朔に背を向けて湯を沸かしていた。簡単なキッチンのように見える場所にコンロらしきものが二つあり、ワインレッド色をしたやかんがその上に置かれていた。そのやかんには注ぎ口が二つあったが、それ以外にとりたてて変わった点は見受けられなかった。少なくとも、ここはある程度文明化された世界のようだ。老人の後ろにある四人がけの木のテーブルには、くすんだクリーム色のマグカップと「ブルースカイマウンテン」と書かれたインスタント珈琲の粉と思われる瓶が置いてあった。かたわらには椅子が二脚置かれていた。

 二秒のうちに朔がそこまで確認した時、「ルカか?」と老人がこちらを振り向いた。

 「誰だ?」

 老人は朔を認めると、怪訝そうな顔をしてそう言った。

 その顔を見た瞬間、朔は息が詰まる思いがした。自分の舌がむくむくと膨れ上がり、喉からの空気の通り道を塞いでしまった。唾液は乾ききり、舌はますます行き場を失った。まるで、口の中に大きくて乾いたナメクジを抱え込んでしまったような感覚を覚える。

 老人には、左目がなかった。やけにぎょろりとした右目は確かに朔を捉え、ブラックホールのような左目は何も見ていなかった。しっかりと足を踏ん張っていないと、そのまま吸い込まれてしまいそうな深さを持つ暗闇だった。それは、朔に髑髏の本棚を思い起こさせた。

 なんとかごくりと生唾を飲み込み、朔はやっとのことで言葉を発した。

 「あの、どうしてやかんの注ぎ口が二つあるのですか?」

 老人は思い出したようにやかんに目を戻し、ガスを消した。

 「そんなの決まってるだろ、俺たちは二つでひとつだからだ。誰でも己の中に二つの側面を持ってる。人によってはそれ以上だ。それを場面に応じてうまく使い分けているだけだ。そうだろ? 俺たちは、それが目に見える形で二つに分かれているってだけだ。別に大騒ぎするほどのことはない」

 朔の疑問は、無視はされなかったが解決もされなかった。

 朔は周りを見渡して、小屋の中にその老人しかいないことを確かめた。

 「わたし、千本朔といいます。この髑髏はどこかとつながっていますか? 近所の図書館の『生と死』という部屋で、髑髏の本棚に入ったらいつの間にかここにいたんです」

 朔は、手順のことは省略してその老人(の右目)に向かって説明した。

 「ここはどこですか? 今は西暦何年ですか? ルカという人は、ここにいますか? わたし、その人に言われてここに来ました。手順は少し間違えてしまったけれど、重力を感じてちゃんと飛びました」恐怖や混乱に流されてしまわぬよう、朔はそこまでを一気に話し終えた。

 「あんた、ホープ様か? あのピアニストなのか? 歳は一体いくつなんだ。随分と先の時代としか結べなかったようだな。その左手はどうした。それでピアノが弾けるのか? ルカのやつ、ちゃんと本物を連れてきたのか?」

 老人は逆に、朔に質問を浴びせかけてきた。

 「わたしには、そのホープ様だとかピアニストだとかいう自覚はありません。千本朔、それがわたしの名前です。それに、この左手は生まれつきです。わたしはピアニストではなく、しがない文房具会社員です、いえ、でした。今は無職です」

 朔は、少なくともその老人が自分に危害を加えることはなさそうだということに安堵し、少しずつ老人に近づいていった。

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第4章(5)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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