【長編小説】『空色806』第4章(5)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)
驚いたことに、その老人は朔が思っていたよりもずっと背の高い人物だった。左目以外に肉体的に欠けているところは見当たらなかったが、手と足がやたらと長かった。家の中だというのに暖かそうな深緑のニット帽をかぶり、だぶだぶの上着とズボンからは、肉の付き方は判断できなかった。老人の背丈に合わせると、横幅がやけに大きな服しか手に入らなかったのかもしれない、と朔は想像した。
それどころか、テーブルも椅子も、近づけば近づくほどその高さを増していった。テーブルのそばに辿り着いた時には、朔はほとんど自分の背が縮んでしまったように思われた。まるで不思議の国のアリスの世界のように。
「ルカを知っているということは、あんたはまずこの国の出身で間違いないのだろう。だいたいのことはあいつから聞いたか? 今、この国はあんたを必要としている。あとは国王がそれに気付いてさえくれればいいのだ。ここは『トラリア』という、空に浮かぶ島国だ。ただし、地上の人々の大半は、それをお伽話としてしか知らない。この国は周りをぐるりと白樺で囲まれていて、ペンキ係の連中が毎日毎日、休むことなくその日の空の色に合わせてその白いキャンバスをせっせと塗るのだ。こいつは骨の折れる仕事だぞ。その代わりに、彼らは高いサラリーをもらう。当然の権利だとは思わんか? 労働には、それと同等の価値の対価が支払われるべきだ。雇う方にはその義務があるし、働く方にはその権利がある。こんなことは、五歳の幼子ですら知っている。ともかくそいつらのおかげで、地上からはこの島は見えない。えーっと、あとあんたは何を訊いたんだっけ。そうだ、西暦? それは地上の年の数え方だろう。鳥一族が仕入れてきた本で読んだことがある。けれど、そんなものはここでは役に立たない。ここでは、みなが自分の年齢で年を数えていく。理にかなっていると思わんか? 自分がいくつの時に何が起こったかを知っている方が、生きていくにはより実際的なのさ。自分が生まれる前に起こったことなんて知って何になる?」
やっとのことで椅子によじ登った朔に、老人は珈琲を勧めてくれた。老人の見かけには似合わない、薄いピンク色にピアノの絵が描かれた、口の広いマグカップに並々と珈琲が注がれていた。
「メープルとホイップは?」
砂糖とミルクは? と訊く代わりに、老人はそう言った。きっとここでは、同じように見えてもいろいろなことがほんの少しずつ違っているのだ。
「お願いします」普段ブラックでしか珈琲を飲まない朔はそう答えた。
そうすることで、ちょっとだけこの世界に馴染めるような気がしたのだ。理解できないことに対して慌てたり腹を立てたりしても仕方がない。そもそも、人間が本当の意味で理解していることを挙げろと言われても、朔にはちょっと自信がない。
あなたは男性脳が90%、女性脳が10%です――遊びで試した何かのウェブサイトでこう判断された。女性脳を多く持つ人々は、理解できないことに対してどのように対処するのだろう?
老人の淹れてくれた珈琲は優しい甘さとまろやかな口当たりで、なぜか赤ん坊にミルクを与える哺乳瓶の口を思わせた。
「俺はキベという名だ。覚えても覚えなくてもどちらでもいい。覚えていたほうが便利だけどな。それくらいの差だ。もうじきルカが来るだろう。あいつは、この島にいる人間や動物を全て感知できる。今に塔のてっぺんからすっ飛んでくるさ」
そう言ってキベは、か、か、かと黄色い歯を見せて笑った。
朔は安心すると、急に寒気を覚えた。震えが止まらない。冷静であったつもりだったけれど、恐怖や混乱がなかったわけではない。それに、やけに寒い。珈琲のおかげでやっと一息ついた時、ふっと全身から力が抜けたような感覚を覚えた。
今はちょうど冬の終わりの時期なんだ、と言いながら、キベは大きな毛皮のブランケットを貸してくれた。それは、朔と朔が座る椅子をすっぽり包んでしまった。そして、キベは慣れた手つきで暖炉に木をくべ、大きなガスバーナーで木に火をつけた。朔の世界でいうところの「文明」が、ここにはいびつな形で組み込まれているように思われた。
「これいいだろ? ガスバーナーっていうやつらしいな。鳥一族のやつらがたまに地上から仕入れてくるんだ。あまりおおっぴらには地上と交易しないことにしているみたいだが」朔の視線に気づいたキベが言う。
「わたしのいたところでは、ガスはまた違った使われ方をします。少なくとも、木をくべる暖炉のある家は、よっぽど古い家かよっぽどお金持ちの家に限られます」
「お金持ちの家か。悪くないな」キベは、お金持ちということころだけを切り取って、満足そうに小屋の中を眺めた。
ギギギ。
キベと努めて他愛もない話をやりとりしている時、再び小屋の扉が開いた。
そこには、ちょうど羽を空色のポンチョの中に畳んでいるルカがいた。朔はほとんど懐かしさすら覚えた。今日のポンチョは目が醒めるような青色だ。
「朔様、どうしてここへ」ルカは入るなり息も絶え絶えでそう言った。
「ごめんなさい。だって、手順が複雑だったんだもの。最後の左目と右目を取り違えたの。それで、わたしは一応正しい世界に入ってこられたのかしら?」と、朔はまたも他人に責任をなすりつけてみる。
「ええ、ええ。間違われたのが最後の手順で良かったですよ」ルカが心から安堵したようにうなずく。
「時空を飛ぶ手順には、レベルがあるんです。正しい部屋、正しい本、正しい目、正しい重力、そして正しい目。それぞれが、時代や場所をだんだんミクロな位置に絞り込んでいくんです。そう、ちょうどバーコードの仕組みみたいに」
バーコードの仕組み? と朔は聞きたかったが、もっと他に聞いたほうがいいことがあるような気がして、やめておいた。
「それで、わたしはここでどうすればいいの? 何か期待されていることがあって、わざわざわたしに会いに来たのでしょう?」
「そのお話は、城に行きながらお話することとしましょう。まずはあなたに、城に馴染んでいただく必要があります」
「やはりこのお嬢さんが。ついに機は熟した。今こそ、実行の時が来た。ピアノの調律をしておかなくちゃならないな」とキベが横から口を挟んだ。
「わかりました。では朔様、行きましょう。城は島を挟んだ反対側、まっすぐ歩いて一時間半もあれば着きます。その間に、事情をかいつまんでお話しましょう。この島のこと、そして悲しみの五年間を」
「ちょっと待って。あなたはここまで飛んで来たじゃない。わたしを乗せて飛ぶことはできないの?」
「申し訳ありませんが、わたくしの背中は重量制限三十キロなのです。なにしろ、普段は荷物や手紙運びがメインなものですから」
「そう、悪かったわね」
そうして朔は、ルカとともに空色の森に足を踏み入れた。図書館にいた時は正午を回っていたのに、ここの時刻はまだ朝のようだ。お腹すいた、と朔は思う。
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第5章(1)「双子は引き裂かれなければならない」(王 四十二歳)
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ことば、文字、文章。
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文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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