【長編小説】『空色806』第5章(3)「双子は引き裂かれなければならない」(王 四十二歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 その兆候は、教育係のリセから始まった。

 「王様、わたくしはもう十分に満足しました。人生において、ほとんど夢だと諦めていたことに、達することができたのです。もはやこれ以上求めることはありません。あとはただ、静かにこの平和を抱えて暮らしていたいのです。もちろん最低限のお仕事はこなします。けれど、できるだけわたくしを一人にしておいていただきたいのです。決して塞ぎこんでいるのではありません。私は今、生まれてこのかた味わったことのない、極上の幸福を実感しているのです」

 公開リハーサルから二日後、リセはまるで夢を見ているかのように、カードル王にこのように申し出た。

 それは唐突ではあったが、加齢による悟りと疲れ、そして人生の最終章を迎える老人にはよくあることのように思えた。少なくとも王の目には、そのように映ったのだ。

 しかし、話はそれだけに留まらなかった。翌日、財政係のニーマも同じようなことを言い出したのだ。王はニーマが財政係であることに不満を覚えたのかと思い、担当を変えても良いと提案したが、特に不満があるわけではないという答えが返ってくるだけだった。ただ、平和を手に入れたのだと。そしてそれは未来永劫満たされ続けるのだと。

 それから一週間、王のもとに次々と奇妙な報告が寄せられた。

 あの公開リハーサルに出席していた国民たち全員が、リセやニーマのように自分の世界に閉じこもり始めたというのだ。日常生活を送る上で最低限のことはこなすけれど、それ以外に人と関わりを持とうとしない。彼らに共通することは、まるでこの世に生きる肉体を保つためだけの活動を義務的にこなし、心はどこか違う場所へ旅をしているみたいに見えるということだった。

 王は対応に困窮した。スズとホープの演奏が、その場にいた者たちに何らかの作用を及ぼしたのは明らかであるようだった。トラリアでは、古くから音楽の持つ不思議な力が信じられてきた。酒のないトラリアでは、音楽は人々に「酔い」をもたらす娯楽として大切にされてきた。そのため、人々は音楽を楽しみながらも決して音楽には溺れないよう、ある意味では注意深く暮らしていた。

今回の出来事は、王家の双子である二人の演奏がそれぞれに作用し合い、その音楽的魅惑を濃くし、何か思いもよらないことが起こったと考えるよりほかにないように思われた。

 そして幸か不幸か、演奏を聞いた者はみな、決して苦しんでいるわけではない。それどころか、以前よりもずっと幸福そうにすら見える。しかし、彼らを前にしていると、生きているという実感がことごとく抜け落ちているように見える。何かの幸運で願いが叶ってしまった彼らは、もう金輪際求めることをやめてしまった。前へ進むことを拒み、その場で暖かい毛布にくるまっていることを選んでいた。それは、悪いこととは言い切れない、たちの悪い麻薬のような誘惑をもって王をあざ笑っていた。

 「なあ、レベッカ」

 公開リハーサルから三週間が経った日、王は夕食の席で長女にある問いかけをした。

 「なあに、パパ」と、レベッカは器用にナイフとフォークでエビのたっぷり入ったオムレツを切り分け、口いっぱいに頬張った。

 もうすぐ九歳になる幼い娘は、二人の妹が同時にできた頃から急激に大人びていった。その日着る服は自分で選び、嫌いだったブロッコリースプラウトのポタージュをしかめ面をしながらも飲み干すようになり、五十六ある表音文字を一週間で覚え、夜は一人で眠った。もともと頭のいい子だった。その時の彼女には知る由もなかったのだが、まるで、いつか自分から母親がいなくなることを悟っているようにも見えた。

 「もし何でも願い事が叶うとしたら、どうする? いくつでも、どんな願い事でも叶うんだ」

 「うーん、ルカみたいに、お空を飛べるようになりたい! それから、お魚みたいに海の底をすいすいといつまでも泳いでいたい」と、彼女はクラッカーを握りしめながら元気よく答えた。

 「そうか、じゃあ頑張らなくちゃいけないね」王は微笑んでそう答えながら、娘が自分は空を飛ぶことができないと悟る日のことを空想していた。

 それは、確かに痛みかもしれない。努力しても決して叶うことのない、理不尽な現実かも知れない。けれど、だからといって彼女が魔法で空を飛べるようになったとして、それが果たしてほんとうの意味で彼女を幸福にするだろうか、いや、それは違うはずだ。それはあまりにも危険なことなのだ。

 そう思いながら、目の前でにんじんのパンケーキとオニオングラタンスープを美味しそうに食べる双子の幼い娘たちを、王は複雑な思いで見つめていた。

 その夜、王は妻であるサンドラにある提案をした。彼女は何もかも承知しているように見えたが、やはり抵抗を隠せないようだった。

 ――スズとホープを、今後決して交じり合わないように引き離し、楽器と歌をこの国から封印してしまうことにする――王はそう妻に告げた後、たまらなくなってカーテンを開け、窓から星空を見上げた。

 「そこまでする必要があるのかしら。彼女たちは決して悪いことをしたわけではないのに」

 妻はまだ他のやり方を探しているようだった。こういう時、気の強い彼女の優しさ、悪く言えば甘さが出る。

 「私たちの目指す国民の幸福は、こういう形で実現されてはならないのだと思う。そして、我々はこの事態の収束を目に見える形で国民に示す必要がある」

 今日のトラリア上空に雲はなく、砂漠の中で無数の砂金が煌めくように星が輝いていた。星は残酷なほど美しかった。確かルルが今朝塗った空の色は22番目だったろうか。星だけは、誰にも等しくその輝きを与える。けれど、今日の星はいつも妻や娘と見るそれよりもやけに美しく見えた。そういう意味では、やはり星の輝きさえも不平等だ。

 その天上の砂漠には「渇き」はなく、それを癒すためのオアシスもなく、星たちは決して人々に到達されることはないことを熟知して安心しているかのごとく、そしてそれをあざ笑うかのごとく、その輝きを存分に人々に降り注いでいた。

 それからの手続き的事項は、淡々と進んでいった。誰もがあえて感情を露呈させまいとしているようだった。ホープの使ったピアノは、仰々しい木箱に入れられ、ほんの空気の欠片も入り込まないように鉄製の鍵を厳重に付けられた後に期限のない眠りについた。

 城の者たちやサンドラと話し合った結果、サンドラがホープを連れて地上の世界に降りることになった。能動的に、積極的に導き出された答えではなかったが、王のトラリアでの役割や現実的な可能性を考慮すると、そうするより仕方なかった。ここで言う地上の世界、というのは比喩的表現でしかない。鳥一族でない人々にとって、トラリア本島から外の世界に行くための方法は2つしかない。フラスコに通ずるスロープを滑り降りて一気に地底まで行くか(そしてそれはあくまでもトラリアである)、教育係であるリセの部屋にある、人の顔の形をした本棚の中に入るかだ。

 その本棚には、時空の歪みが詰まっていた。トラリアには、国を空に留めておく動力を生み出すために、エネルギーポイントが存在した。それには時空を超える歪みが存在し、人々はその歪みを通して全く違う時代の違う場所へ飛ぶことができた。時代の科学者たちは実験を繰り返した。勇気ある「飛んだ」国民とは、偶然に違う時代に降り立った鳥一族の郵便を通して、まれに手紙がやり取りされた。

 しかし数々の実験の結果は、その旅はタイムマシンのように自在に行き先をコントロールできるわけではなく、さらに帰り道を持たない一方通行の旅への入り口であることが判明しただけだった。

 それ以降、ここに足を踏み入れることは禁忌とされていた。かつて、過って時空の歪みに足を踏み入れてしまった数年後に偶然再びトラリアに帰ってくることができた者がいたが、その者自身はもう五十も歳を取ったように見え、自分が見聞きした世界の顛末をぼそぼそと口にした後、間もなく死亡した。

 サンドラは幼いホープを連れ、リセの部屋を訪れた。リセの部屋の本棚は、まさにそのエネルギーポイントだった。気の強い王妃は、王やヨーテの見送りは拒否した。せっかく決めた心が、揺らぎそうだったから。昨晩はレベッカとスズと一緒に眠り、明日からホープとお出かけする、とだけ伝えた。何もわかっていないスズは自分も連れて行って欲しいとねだり、レベッカは何か聞きたそうにしていたけれど黙っていた。黙って手を握ってくるのが、せめてもの抵抗だったのかもしれない。

 いざ本棚に入ろうという時、相変わらずリセは、終始穏やかな笑みを浮かべ続けながら、それでも寂しそうな表情を浮かべた。

 「スズ様とホープ様の演奏を、国民みなに聞かせてやりたかったです」と。

 これは本当に穏やかな気分ですから。

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第6章(1)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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