【長編小説】『空色806』第6章(1)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 ルカに聞いた話は、哀しく切ない物語だった。そこには現実感がまるまる欠けており、同時にあまりにもリアルに朔の胸に記憶としてよみがえるようだった。

 この島の成り立ち――空の色のことだとか、地上との交流のことだとか、国の制度――について話す時のルカは、事務的で仕事のよくできる秘書のような印象を受けた。けれど、五年前の出来事を話す時だけは、とても哀しく悔しそうに、それでいてなぜか熱っぽく話すのだった。

 王の前では千本朔という人物でいてください、とルカは言った。言われずとも、わたしは千本朔以外の何者でもないのに、と朔は思った。これからしばらくの間、城で清掃員として働き、城に馴染んでほしい。そして、日が暮れたらキベの家を訪れ、彼の仕事を手伝ってほしいのだ、とルカは付け加えた。

 朔は、わりにリアリストな自分が案外すんなりとトラリアという国の存在を受け入れていることに多少たじろいだが、それをほかにすれば「ちょっと面倒なことに巻き込まれたかもしれない」という感想を抱く程度だった。その感覚は、仕事のできない後輩が文具の発注数を間違え、いつもの二十倍の数をさばかなければならなかった時の気持ちに似ていた。あの時朔は、生まれて初めてパンダの着ぐるみを着た。

 いずれにせよ、乗りかかった船だ。深い海の真ん中で錨を下ろすことはできない。朔の心はむしろ踊ってさえいた。朔とルカは、まず空色に染められた森を抜け、丘を越えた。島の外周に沿って行くより、島の直径を辿ったほうが数学的見地からすると近道なのだとルカは得意げに言った。特に反論する理由も見当たらなかったので、朔はとにかくルカの後について歩き続けた。

 村のそばを通る時、奇妙にしんとした雰囲気に違和感を覚えた。本屋に立つ人々の静かな思考、サバイバルナイフを鍛える半裸の男性、フルーツと健康ドリンクを売る女店主の声。ちゃんと人の気配はあるし、声も音もする。けれど、どこかぐっと堪えているような、分厚い鉄の扉に閉ざされたような重々しさが存在していた。朔の働いていたオフィスも確かにしんとしていたが、そういうのとは別の「音があるべき場所にない」ような印象を受けた。それはきっと、五年前の出来事によって蓋をされた人々の音楽への恋しさが少しずつ見え隠れしているしるしなのかもしれない、と朔は勝手に想像した。

 それでも、見たことのない色とりどりの市場を通り抜けるうちに、その違和感は高揚した気持ちに変わっていった。なにかのオブジェかと見紛うほど大きなカボチャやきゅうりがずらりと並んだ店、瓶詰のベリージュースの店、細長い透明な管に珈琲の豆をぎっしり詰めて売る店。これでカフェラテを淹れたら、きっと生まれたての子犬みたいに喉がきゅるきゅる鳴るくらい美味しいに違いない。「ルーシーのハニー専門店」と書かれた、たんぽぽ色の看板が目立つ店のウィンドウには、トラリア随一の粘度を誇ると謳われたはちみつが、上から下へゆっくりと重力に身を任せていた。

 「あなた、日本の人でしょ?」

 通りの左脇にある「サルホール」と書かれた建物に目をやった時、朔に話しかける者がいた。「日本」という言葉に反応してはっと振り向くと、ありとあらゆる種類のきのこを集めたくらいたくさんのきのこが並んだ店の奥から、細身の女性がこちらを見ていた。

 「それ、ムラカミハルキ」彼女は、朔のカバンの中から覗く文庫本を指差して言った。十種類のきのことヤギの生クリームを使用しているというきのこのスープが、そこら中にいい香りを放っていた。

 「私もここに来る前、随分と読んだわ。あの頃は、毎日生きているだけで何かを少しずつ失っている気がしてた。それが怖かったのよ。けれど、生身の体で生きるっていうのはそういうことなんだって、他の形であった可能性を捨て去りながら進んでいくことなんだって、私はその人から学んだの。もっとも、書いた本人はそんなことを伝えたつもりもないんでしょうけれど」と、そのよく日に焼けた女性は白い歯を見せて笑った。彼女は細身のわりに手がゴツゴツしていて、朔はちょっとだけどきりとしてしまう。

 「あなたは、ここの人ではないのですか? 日本のことをどうして知っているの?」朔はもっと訊きたいことがあったけれど、やっとそれだけ言った。

 「今はここの人。七年前に皇鳥のお腹に入って、ここに来たの。もちろん、自分の意志でね。あなたもそうでしょ? その前は、日本で鉛筆の芯を削る仕事をしていたの。そりゃもう、私の削る芯はいつだって評判だったわ。けれど、どんどん鉛筆を使う人が減っていって、鉛筆の芯みたく先細っていく業界を見ていると、何だか悲しくなったの。このまま鉛筆削ってばかりの人生って何なんだろうって思ってたくせに、このまま鉛筆削ってばっかじゃ食っていけないって悩みだしたのね。で、これじゃいけないって。行くあてもないのに会社をたたんで、自分の人生の意味について来る日も来る日も考えてたのよ。そしたら、ムラカミさんの言葉をふっと思い出したの。『人生とは、容れ物だ。容れ物は変えられないから、その意味を考えるよりは、何をその中に入れるかを考えたほうがいいんじゃないか』みたいなことよ。大体はそんな感じ。その時、自分のスペックを言い訳にするのはやめようって決めたのよ。で、すぐに皇鳥便を頼んだわけ。ここに一度来てしまったら、もう戻り方はわからないけれど、それでもいいって思ったのよ。とにかく新しくやり直したかった。まさか皇鳥便の行き先が、あの伝説の空島だなんて思わなかったけれど。ここには、私の他にもそういう人たちが何人かいるわ」

 いらっしゃい、二十リタスよ、と彼女は客の相手をしながら淡々と話した。その客は彼女と簡単な挨拶を交わした後、ちらりと朔の方を見てから、カンタレッリというきのこときのこのスープを買っていった。

 皇鳥便? わたしが普通に日本で暮らしていた時は、少なくともそんな「人を運ぶ宅配便」のようなサービスはなかったように思う。それに、彼女のついていた仕事。来た時代が違うのだろうか。知っているつもりでも、世の中はまだまだ謎に満ちている。

 「わたしは多分、違うやり方で来たのかもしれない。鳥のお腹に入った記憶はないから」

 「じゃああなた、ラッキーよ。皇鳥の小腸は、なんだかむにゅむにゅしてお世辞にも居心地がいいとは言えなかったから」

  朔はその女性に別れを告げ、歩を進めた。数メートル先には、貝殻のような形をしたパンを頬張りながらパン屋の少女と楽しそうに話をするルカの姿が見えた。

 「すみませんね。王様の好物なもので」朔の方に戻ってきたルカは、冗談みたいに砂糖のどっさりかかったお菓子を袋いっぱいに抱えていた。

 「おひとつどうぞ」

 そう言ってルカは、朔にそのいびつな野球ボールのような形をしたお菓子をくれた。穴のないドーナツ。それもとてつもなく甘い。朔はそんな感想を持った。王様はきっと、きつくベルトを締めたズボンの上に、はち切れそうな風船を抱えたような姿をしているに違いない、と朔は勝手に決めつけた。シングルの布団が三枚は干せる物干し竿くらい長いくるみのパンを朔に持たせ、ルカは城への道を再び進み始めた。

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第6章(2)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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