【長編小説】『空色806』第6章(3)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 城の中に足を踏み入れる時も、特に誰かに見咎められるわけでもなく、このまま城の一番奥まで行けてしまいそうな様子だった。一国の城がこれほどまでに無防備であけっぴろげということは、国が豊かだということだ。誰もがコップいっぱいに満たされ、犯罪など起こらないのだ。わたしのいた場所とは違う、楽園みたいなところなのだ。朔はそう結論づけ、自身を納得させる。

 太陽の光が注がれる大地から屋内に入った時特有の、暗くてチカチカした状態が朔をひと時混乱させる。そこから目が慣れてくるとほどなく、嗅覚が刺激される。こんがりと焼けた小麦粉とバターが混じったほの甘い匂いに、思わず目を閉じて息を吸い、ほうとため息をつく。

 「ヨーテ、次はクマの形のココアのを焼こう」と、こちらも甘ったるい幼い少女の声が漏れ出す。

 「スズ様です。少し顔を出していきましょう。あなたの記憶にも、刺激になるかもしれない」

 ルカは返事を待たずに、入り口から入ってすぐ右手にある、レンガでできたアーチをくぐる。

 そこでは、七つか八つくらいの小さくてぷくりとまるい女の子と、ふくよかなおばさんが仲良くクッキーを焼いていた。そのおばさんの、優しく温かく明るい笑顔を見た時、朔は合点した。トラリアの城は、ここにあったのだ。目の前のおばさんは、確かに『アラジン』の城の上に鎮座する黄金のたまごそのもののようだった。

 「スズ様、今日はクッキーですか。いいですね。わたくしの好物です」

 「今日はルカのためじゃなくて、お姉ちゃんの『馬乗り選手権優勝』のお祝いなの! でも、ちょっとだけならルカにもあげるよ」

 「それに、スズ様は午後にもブルーベリーのパイを焼くそうで、今日は大忙しなんです。あれもレベッカ様の好物ですから」横から金のたまごさんが付け加える。

 「それはそうと、今日から清掃係として新しい人が入ることになりました。地上のヤーパンというの国の方で、今朝の皇鳥便で到着されました」

 ヤーパン? 日本のことを、ここではこう呼ぶのかしら。それに、また皇鳥便が何とかって。

 「地上の人だなんて、ひさしぶりだねえ」朔が反論する間もなく、焼きたてのクッキーを口に放り込みながら、スズが大きな瞳を朔に向ける。

 「朔といいます。よろしくね」朔はできるだけ優しそうに見えるように、にっこり笑ってみせた。

 「サク……ピアノが弾ける?」

 スズが左斜め上を見た後で朔の目を見て、何かを思い出したようにそう言った。

 「ピアノは、生まれてこのかた一度も弾いたことがないの。この通り、左の指がない」

 朔が左手を見せると、スズははっとしたような顔になり、俯いた。

 「ごめんなさい」

 「謝らないで。わたしはこれまで、この左手と一緒にそれなりに楽しく生きてきたんだから。謝られると、かわいそうな人みたいになっちゃうじゃない」

 しばしの気まずい沈黙を破るように、例のおばさんが、あの、と声を発する。

 「わたくしはヨーテと言います。ここの給仕係。まあ、一応それぞれの得意分野に係が割り振られているのだけれど、ここの人たちはみんな手が空いたら手伝ってくれるから、あまり肩肘張らずにお仕事がんばりましょう。オー!」

 小さく挙げた左のこぶしを下ろしたヨーテが朔と握手を交わそうとし、はっと気付いて右手を差し出し直した時、ちょうどオーブンが焼成完了の合図を鳴らした。

 「では、昼食が始まるまでに王様に挨拶を済ませてしまいましょう」

 そう言って、ルカは部屋を出てそのまま螺旋階段をずんずん登り始めた。スズと一緒にクッキーをつまみ食いしていた朔は、慌ててルカの後を追った。

 この城が城らしいところを挙げるとすれば、それはその天井の高さだった。ロの字型に並ぶ部屋の中央は吹き抜けになっており、二階部分の天井には三角のガラス窓が規則正しく並んでいる。ところどころそのガラス窓が黄色だとか青色だとかに塗られていて、まるで品のいいミラーボールみたいに城の内部を彩っていた。

 朔はルカに付いて、キッチンを出て向かって右側にある螺旋階段を一階分登った。すると、下からは見えなかったもう一つの階段が、城の入り口のちょうど上の方に見えた。一階から二階へ登る階段に比べると随分幅が狭く、石の並べ方もいささか適当であるように思える。そしてそれは、上に行けば行くほど狭くなっていく。朔はまるで、自分が『不思議の国のアリス』の大きくなる薬を飲んでしまったかのような錯覚を覚えた。全く、これじゃキベの家にいた時と真逆じゃないか、とため息をつく。これは、城に入ってクッキーの匂いをかいだ時に漏らしたため息とはまた全く別ものだ。ため息って便利だ。

 やけに長い階段を登ったところで、ようやく目当ての部屋にたどり着く。「カードルの部屋」と書かれた部屋の扉は、つがいのところが錆び付いていた。それにやけに埃っぽい。ここの清掃係はなかなか働きがいがありそうだ、と朔は今度は鼻息を荒くした。

 『必ずノックしてください。中の人がびっくりしてしまいます。郵便は南の小窓から。日の出から四時間は不在』と書かれた札が、扉にかかっていた。

 「カードル王様、新しい清掃係を連れてまいりました。久々に皇鳥便に乗ってやってきた、地上の者です」ルカはきっかり五回、すばやくノックした後にそう告げた。

 「皇鳥便じゃ、ないと思うんだけれど」

 「そのほうが、都合がいいのです。物事には、本当のことを言うべき場面と、自然の流れに合わせるべき場面が存在します。大切なのは、相手と会話をする際にいかに相手が求める意見を読み取るか、ということです」

 ルカは額にしわを寄せ、やけに神妙な顔で静かにそう言った。そこには、否と言わせない雰囲気が漂っていた。

 「さあ入ってください。わたくしは、ここで待っていますので」

 こぢんまりとした部屋に入ると、王と思われる人物は、分厚い本と羊皮紙、そして電子タブレットを机に広げて丹念に鉛筆を削りながら座っていた。ハリーポッターに出てくる校長先生の部屋のような風景に、最新型のタブレットだけが妙に浮いて見えた。

 「ルカから聞いているよ。今日からこの城の清掃を手伝ってくれるそうで。よろしくお願いします」と、彼はやけに丁寧に頭を下げる。

 その人は、王というにはあまりに普通のおじさんだった。みなが王という像に期待する姿というのは、もっとキラキラした宝石のたくさん付いた洋服をまとっていて、顔からこぼれ落ちてしまいそうなほどの笑みを浮かべて、誰の心でもすぐにいっぱいにしてしまう慈悲と明るさを持ち合わせた太陽のようなオーラを持った人だろう。あるいは、椅子にふんぞり返っていつもしかめっ面をしているような王も、現実の世界には存在する。朔は、遠い昔に世界史で習ったどこかの国の王を思い出そうとしてみる。そんなふうに、役割には、それに応じた人物像というものがあらかじめ決められていて、役者はその像にいかに近づけるかが腕の見せどころとなる。

 ここの王は、確かに優しく穏やかな笑みを浮かべ、体つきもそれなりに豊かだった。けれどどことなく疲弊し、神経質な人間がしばしばそうであるように、誰にでも一定の距離を保っているような目をしていた。

 彼は朔に椅子を勧めてくれ、特別な茶葉を使っているという紅茶を淹れてくれた。その間、手持ち無沙汰の目線を、朔は開きかけられた大きな荷物にやった。それは、木琴とフルートだった。

 「今、この国では楽器を演奏することは許されていないのだ」王は朔の視線の先に気付いて言った。だから、これらの楽器もこのまま倉庫行きとなる。ほかのところで違う時代に生まれれば、きっと美しい音色を響かせてくれたに違いないのに。こことはどこか違う場所を見つめているように、彼は独りごちた。

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第6章(4)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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