【長編小説】『空色806』第6章(6)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)

【長編小説】『空色806』第6章(6)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 すっかり腹がふくれ、みなで片付けをした後、ルカはいつも通りの自分の仕事へと戻っていった。地上での朔を知っている唯一の存在として、ルカは確かに頼もしい存在だった。しかし、同時に朔はルカといると少し気詰まりな気がしていたことも事実だった。

 去り際に、ルカは夜にキベの家で落ち合おうと耳打ちした。その囁き方は、妻子持ちの上司が若い女性社員に対する誘い文句のようでもあり、朔はそのような現実的な妄想をこの不思議な空島にまで持ち込んでいる自分に、多少なりとも違和感を感じないわけにはいかなかった。まだ数時間しか滞在していないものの、ここの気候、人々、空気、食べ物なんかは地上のそれらよりずっとイノセントな白さを讃えているように見えた。朔は卒業旅行でハワイに行った時、今と似たような感情を抱いたことをぼんやりと思い出していた。

 朔は誰かに城の清掃の手順を聞こうとする。ここにいる間、朔にできることといえば、与えられた役割をこなすことくらいしかなさそうだった。平日に仕事をしている時は、何も予定のない休日があれほど嬉しかったのに、いざやることがなくなると、案外不安になってきてしまう。それに、朔は五体満足にも関わらず、誰の役にも立たずぐうたら過ごすことが苦手だった。

 しかし、城の内部の詳細な間取り、さらに各部屋に何があるか、どの程度手入れされているかを把握している者は誰もいなかった。それぞれの使用する場所の手入れはそれぞれの責任と良心に委ねられており、恐ろしいことに数年間手付かずの場所も存在するようだった。朔はまず、城の間取りを把握することにする。スズはパイ作りに忙しいようだったから、朔はレベッカに城の案内を頼んでみた。

 「せっかくの午後を悪いのだけれど、よかったら城のことを教えて欲しいの」

 「もちろん。掃除もお手伝いするわ」

 レベッカは、屈託のないというよりは、やはり周到に準備された笑顔を朔に向け、腕まくりをする。まだ知り合って数時間だが、この少女にはどことなく押さえつけられたような感情のふたのようなものが存在するように思える。あけっぴろげで幼い、五つ下の妹にはないものだ。

 表向きは努力家でしっかり者の姉であり、よく食べよく学びよく動く、典型的な明るい優等生なのだが、そのさらに奥に、あるいは本人も気づかないほどの奥に、かなり分厚い壁が存在する。おかげで、誰一人として彼女の内側には近づけずにいる。その中には、彼女にとってのサンクチュアリが広がっているのかもしれないし、永久にひび割れることすらない鉄の壁を、内側から孤独に叩き続けているのかもしれない。いずれにせよ、朔はレベッカの中に得体のしれない日陰の部分があることを感じ取っていたし、自分のそう言った観察眼には少しばかり自信があった。

 二人はまず、最上階の王の書斎から始めることにする。

 「ここはあたしもまず来ないの。階段、随分汚れてるなあ。お父様も最近はほとんどタブレットで移動しているから」

 朔は、たとえほとんど使われていない場所であっても、定期的に手入れをする必要があると考えるほうだった。見えないところでも、無視されて埃が積もっていくと、必ずどこかにその淀んだ空気は染み出してくる。そうでなくとも、表面だけが取り繕われた清潔さには、厚化粧をした古アパートの管理人みたいな胡散臭さがこびりつくことになる。そういう点においては、完璧主義のレベッカとも意見が一致した。

 二人は書斎で手紙の返事を書いている王に断り(レベッカはノックをせずに入室し、王を大いに驚かせた)、屋根裏のような王の部屋から二階に続く階段を一段一段丁寧に掃き、たわしでゴシゴシ水洗いしていった。

 先ほどは気づかなかったが、この城の壁のレンガには、ところどころ不思議な形をした石が埋め込まれていた。やけに太い線でバツを書いたような、屋根のある家の形をした五角形のてっぺんを四つつなぎあわせたみたいな記号。それぞれの底辺からはさらに幅の細い線がほんの少しだけ付き出していて、まるで高床式倉庫の家の屋根の頂点を四つ接合したようにも見える。記号の中央には檸檬型の穴が縦に二つ開いている。きっと誰かが高床式倉庫の屋根をくっつけるときに齧ってしまったに違いない。ぴたりと合わさると、それはぽっかりと穴の空いた目のようにも見え、朔は強烈な既視感とともにその両目に吸い込まれそうになった。

 屋根裏に続く階段を磨いた後は、二階から地下一階までの階段と廊下を一気に磨いてしまう。それらがすっかり終わった頃には、ほうきが八本とたわしが五十五個、すっかりだめになってしまった。朔は、この城が中世のヨーロッパのそれのようにバカでかくなかったことに感謝するとともに、なぜ大きな城がその大きさに応じて多くの使用人を必要とするのかという理由にも合点がいった。

 キッチンの前を通る時、ちょうどブルーベリーのパイの焼ける匂いが漂って来て、思わず二人でしばらくその前に佇んでいた。

 「いい匂い。あたし、このパイが本当に大好物なの。今日はスズがあたしに内緒で焼いてくれているつもりみたいだから、ここの前を通ったことはなしにしてね」

 そう言ってレベッカは愛おしそうにキッチンを眺め、またゴシゴシとレンガをこすり始める。

 レベッカは、知れば知るほど不思議な少女だった。掃除の間、彼女は朔に国に関する様々な話をしてくれた。トラリアには、歴史を学ぶ習慣がない。国民はみな、自分が生きた間だけの歴史を持ち、そのままそれを自分だけのものとして死んでゆく。人々はその時の王の年齢で時代を計り、自らの年齢をカウントする。国で生きていくための最低限のルールを親から学ぶほかは、誰もが自分の歴史の中だけで経験し、失敗し、悟ってゆく。年輩の者は多くを語りすぎず、子どもたち自身に経験させる。そうすることでしか何をも得ることができないと考えられている、とレベッカは王に教育されてきたと言った。

 そのようにして、トラリアは恐らくは何百年もほとんど正確に歴史を繰り返しながら紡いできている。もちろん、地上からの影響で多少(あるいはかなり)変わっている点もあるだろうが、それを確かめることはここでは禁忌とされている。

 レベッカは、馬術や読書のことを語る明るい優等生の笑顔を見せたかと思えば、頑固な職人のような緻密さで壁を磨き上げる。妹への優しいまなざしを垣間見せた後、ぼうっと壁を眺めて物思いに耽っていることもある。かと思うと、壊れたカセットテープのように突然話しだす。朔はまるで、半時間ごとに違う人間を相手にしているような感覚を覚えた。しかし、これからここで一緒に暮らすことになる彼女と、これだけの時間をふたりきりで気詰まりなく過ごせたことは、ひとつの収穫であるようにも思えた。なぜだかサクにはあたしの中のいろいろなことを見せられる気がする、と彼女は言った。

 「おねえちゃーん! どこー!」城中にスズの声が響き渡る。朔とレベッカは、ちょうど廊下と壁の掃除を終えて一階へ戻るところだった。

 「きっとパイが焼けたのよ。行きましょう。あのパイは、本当に絶品なんだから」

 そう言ってにっこりと微笑むレベッカは、彼女の中で一番頻繁に出てくる、よく躾された明るい優等生の彼女だった。

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第6章(7)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)