【長編小説】『空色806』第8章(1)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 それからの朔は、昼食を挟んだ朝の八時から午後二時にかけては城の内部を掃除し、二時から五時にかけては二人の娘たちに日本語の読み書きと計算、それにレベッカには車の乗り方を教えるなどという生活を送った。複数の鳥一族によって地上から持ち帰られたそれは、マニュアル式の小さな赤い四人乗りの日本車だった。王は使い方の分からないその車を娘たちにおもちゃとして与え、幸いにも朔はマニュアル車の運転免許を持っていた。

 トラリアの言葉は朔が日本で使っていた言葉と全く違うものだったが、どうしたわけか朔はここで話す言葉がほとんど完璧に理解できたし、文字も読めた。そもそもここで違う言語が使われていることに気づいたのも、到着して二日経ってからだったほどなのだ。外国語の勉強が苦手な彼女にとって、それはありがたいことだった。

 四日働けば、一日の休みがもらえた。西暦はないが、曜日や月の概念は存在していた。朔は休日であっても、実際はほとんどの時間を二人の王女と過ごすことに費やした。ほかに特にこれと言ってやるべきことも見当たらなかったし、朔はこの二人の幼い娘たちを好きになっていた。妹がいればこんな感じだったのかもしれない、とすら思った。実際には、ほとんど親子ほど歳が離れていたのだが。

 「ねぇ、サクは地上から来た人なんでしょう? サクのいたところは、王様がいる? その人は優しくて、いつも国の人の幸せのために頑張っているの?」

 レベッカが一人で試運転をしている間、スズが朔を見上げてそう言った。

 「そうだね。王様のような立場の人はいるよ。残念ながら、頭はいいのに自分のことばっかり考える人もたくさんいる。中にはほかの人のためにとっても頑張っている人もいる。けれど、そんな人たちの頑張りは、あまり届かないの。報われないの。そうやって無駄とも思える努力を続けていくうちに、みんな自分の小さな幸せを守ろうとすることだけに精一杯になっちゃうの。他の人の分まで優しくする余裕は、なくなるの」

 スズはきょとんとした顔で、朔を見つめていた。

 しまった、少し難しすぎたかと朔は少しばかり言い方を変えた。

 「例えばね、わたしがここに来た時、スズはサンドイッチをわたしにくれたでしょう? あれは、あそこにたくさんの食べ物があって、だから優しいスズはわたしにも作ってくれたんだよね。でもね、もしあそこにサンドイッチが一つしかなくて、お腹ペコペコのスズがそれをわたしにくれて、それでもわたしは『ありがとう』のひとことも言わないで、それでスズがお腹が空いて死んじゃったら、どう? 同じことができる?」

 朔は、目の前の少女がまだ飢えたことも、満たされない想いもしたことがないのだと悟りながら、そんなふうにしか考えられなくなっている自分にため息をついた。大人になるということは、こんなにもねじれていくことなのだろうか。

 「できると思うよ」スズは目に強い光を宿しながら言った。

 「スズは、たぶんそのために生まれてきたの。パパも、死んじゃったママも、自分が幸せじゃない時にでもほかの人の幸せのために頑張る人だと思う。それに、スズには妹がいた。みんな忘れてるけど、あの子もきっと、そうだったと思う」

 遠い目をしながら独白する目の前の八歳の少女を、朔はどこか懐かしい同志を見るような気持ちで眺めていた。

 ガシャン!

 大きな音に驚いてそちらに目を見やると、レベッカが豪快に壁に車をぶつけていた。元気で明るく優等生な長女には、すこしばかり不器用な面があることも、朔がこの短い期間で発見したことの一つだった。朔はスズと顔を見合わせてくすくすと笑い、レベッカの救出に向かった。

 王という仕事は、朔が想像するよりもずっと忙しいものであるようだった。ここに来た日以来、食事の席以外で王の姿を目にすることはほとんどないに等しかった。ここ最近は犯罪が増えて、王の仕事も激増しているのだ、とレベッカが教えてくれた。村の中の牧歌的な風景を目にしてきた朔にとって、それは意外に思われた。

 夕食のあとは、毎日欠かさずキベの家に行った。ピアノを練習しろ、と言われた時、朔の心にひっかかるものが全くないわけではなかった。ピアノなど弾いたことがなかったし、それが何を目的として行われるのかは教えてもらえない。朔は、目的を明確にしないことには、そしてそれが自分の中で納得ずくでなければ行動できない性格だった。けれど、それが孤独な王を救う唯一の方法だと聞いて、しかもトラリア国民のためになることだと説得されれば、頷かないわけにもいかなかった。自分が異分子である環境では、あれこれ反論したり状況を変えようと模索したりするよりも、一旦流れを飲み込んで自分をそれに慣らしてゆくほうが、はるかに摩耗が少ないということを、朔は留学と新入社員時代の経験から学んでいた。

 「でもわたしには左指がない。これは、ピアノを弾く上では致命的なことじゃないかと思う」

 せめてもの抵抗として、朔はキベの家を訪れた初日にキベとルカにそう告げた。

 「確かにそれは我々の想定外のことでした。けれど、」ルカはちらりとキベを見やる。

 「中国に、手のないピアニストというのがいる」

 朔の反論も、二人の想定内のようだった。

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第8章(2)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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