【長編小説】『空色806』第8章(2)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 そのようにして一ヶ月が過ぎた。

 朔が使っていた部屋は、元王妃のサンドラの部屋だった。とは言っても、朔の思う「王妃」の部屋とは違い、主張しすぎないシンプルな家具と、薄く積もった埃があるだけだった。あるいはサンドラが去る時にたくさんの調度品を持ちだしたのかもしれないが、そうではないだろうという確信が朔にはあった。この城の人たち。彼らはあまり「モノ」に対する欲がないように見えた。吾唯足るを知る、彼らを見ていると、朔は日本のどこかの寺にある石に刻まれたその言葉を思い出した。それに、ここの物は地上ではあまり役に立たないのだ、とそう言えば王も言っていた。

 部屋に一人でいる時、朔はよく考え事をした。そうしたくてそうしたというよりも、むしろそうせざるを得ないというほうが正しかった。ここには溢れるほどの本があり、読書好きの朔にとっては天国のような場所だったけれど、今の朔にとって必要なことは、ただ無我夢中にインプットをすることではなかった。まず、今自分が置かれている状況を整理する必要がある。朔はそう判断し、一つひとつ、それまで見聞きした事実とその日に起こった出来事とを照らし合わせながら、可能な範囲でそれを自分の中に落とし込もうと努めた。

 毎日キベの家から戻ると、大抵の場合、もう城の中は暗くなっていた。まだ仕事の残っている城の誰かと鉢合わせることもあったし、暗闇のなか半ば手探りで自室に戻ることもあった。毎日こんな時間まで何をしているのかと問われれば、考え事をするために島を散歩しているのだと答えた。王とて散歩を日課にしているし、突然地上から来た朔が、自由時間に城の外に出てじっくりと考え事をすることを咎める者はいなかった。

 サンドラの部屋の天井の真ん中にある明るい電気を消し、部屋の四隅にある淡いオレンジ色の蝋燭を灯す。そうすると、自然と集中してものを考えることができた。目に入るところにモノがないということは、頭の中が散らかりすぎている時にはうまい具合に作用する。

 まず、鳥人間が朔に会いに来た。

 いや、たぶん物事はもっと前から始まっていたような気がする。けれど、少なくとも朔にとってのターニングポイントは、そこだった。毎日の中に違和感を感じ、仕事を辞め、時を待った。そして、ルカが来た。

 ルカに導かれるままに、朔はトラリアと呼ばれる不思議な島に来た。ここは、空に浮かぶ島らしい。空に浮かぶ島。そう言えば、朔はこの島が空に浮かんでいるという証拠を、まだ一度も確かめていない。その他のことがあまりにも非現実すぎて、そうであると言われればそうであるような気がしていた。

 ルカに聞いたところによると、そしてそれを本当に信じるとして、この島には王がいて、かつて妻がいた。三人の娘がおり、そのうち二人は双子だった。彼女たちが三つの時、ある事件が起きた。二人の奏でる演奏が、それを聞いた人々の精神に深く作用した。それを善と捉える者もいれば、悪と捉える者もいた。しかし、当時の王はそれを「不自然」なことだと結論づけた。そうして彼の妻は死んだことになり、双子のうちの一人はなかったことになり、この国からは音楽が消えた。二人はリセの部屋にあるエネルギーポイントから、ランダムに選ばれた地上のとある地点へ発った。朔がここに来る時に通った、キベの家にあるもう一つのエネルギーポイントのことは、くれぐれも内密にするように、とルカに指示された。

 この、文明がいびつに入り組んだ国には、鳥一族がいて、五千もの空の色を見分けられる鳥人間の成り損ないがいて、たまごのような姿をした料理上手の給仕係がいて、食べ物を口にする度に色の変わる少女がいて、いつも何かを求めているような瞳をした、元双子の少女がいる。それに、背の高い片目のない老人が一組いて、彼のうちの一方は島の端に住み朔にピアノを教え、もう一方は魂を抜かれたようになり、その肉体を最低限保つために城の中で活動をこなしている。そこまで考えたところで、朔ははたと思い当たった。この二人の関係は、双子。これは、スズが双子であったことと何か関係があるのかしら。

 そして、キベとルカの関係。彼らは、朔をホープだと信じているようだった。あるいは朔は、ホープなのかもしれなかった。母はサンドラで、何らかの因果で朔は左指を失い、母娘ともに記憶をなくした。それとも、母は全てを知っていて、何も知らずに生きてきたのは、朔だけだったのだろうか。そして、朔は、ホープは、ルカとキベによってこの島に再び引き戻された。想像するに、この二人はもう一度自分にピアノを演奏させようとしているのかもしれない。

 そう考えると、自分がこれまで生きてきた日常の中に潜む「違和感」の説明がうまくつくような気がした。自分はこの不思議な世界の夢を見ているだけかもしれない。けれどここには、奇妙な現実感があった。少なくとも、何らかの形で地上、つまり朔のいた現実と繋がっているように思えた。現に朔は、皇鳥便とやらで地上から来た人と会っているのだ。朔は皇鳥便で来たことになっている。皇鳥便というものが普通に知られている地上と、朔のいた地上は違った現実なのだろうか。それとも、朔がいた世界には、まだまだ朔の想像を越えた何かが潜んでいたというのか。

 そんな具合に、朔は一日一日確実に思考を進め、理解を深めていった。けれど、そこにはいかなる意味合いにおいても「答え」のようなものは見つからなかったし、朔はここに自分が存在しているということに、ますます自信が持てなくなっていた。

 キベの家には、ルカがいる時もあれば、いない時もあった。珈琲も飲まずに練習が開始されることもあったし、キベが森で採れた木イチゴを使って焼いたパイが出されることもあった。この国に滞在するようになってから、朔の摂取カロリーと消費カロリーはどちらも跳ね上がったと思われた。朔は、均整の取れた筋肉がついた足、逞しくなってきた二の腕、甘いモノをたくさん食べているのにも関わらず引き締まってきたお腹など、自分の体の変化をわりに気に入っていた。水分を多く含んだ木イチゴのパイはお世辞にも美味しくはなかったが、朔はいつも残さず平らげた。食べ物を残すのは、彼女の主義に合わなかった。それに、城とここの往復だけで、たとえ夕食後でも軽い空腹を感じるくらいの運動量にはなった。

 ピアノに関しては、キベは実にいい教師だった。音楽的才能などほとんどなかったものの、朔の五本の指とひとつの握りこぶしから奏でられる音は、一ヶ月後には何とか音楽らしいものになりつつあった。彼らの期待に応えてスズとともに音を奏でるかどうかは別にして、朔ひとりがピアノを弾く分には特に害はないように思えた。それに、朔はそうする以外に自分が少しでも真実に近づく術を持たなかった。

 そうして事件は、何の前触れもなく起きる。冬をしまい込むための、長い雨の後に。夏を待ち焦がれ、太陽を浴びる準備を始める人々をあざ笑うかのように。

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第8章(3)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

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