【長編小説】『空色806』第8章(3)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

空色806

▼概要・目次はこちらをご覧ください▼
【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 トラリアに、今年も待ちに待った春が訪れた。冬が長いトラリアでは、過ごしやすい春夏の期間は短い。その分人々は、その限られた温もりを自分の中に一年分蓄えておこうと活動的になる。早くも夏の太陽を予感させる、気持ちのいい晴天に恵まれた今日、トラリアでは「青い花祭り」が行われていた。

 祭り、とは言っても、取り立ててどこかに集まって王の演説を聞いたりするものではない。トラリアで作られるリネンの花が、国内で唯一の丘一面に一斉に咲き、一週間に渡り人々がそこを訪れる。彼らは、今年もトラリアのリネンがその涼しげで丈夫な布地を紡げるよう、祈りを込めて花びらに口づけをする。青く透き通った五枚の花びらを持つその花は、人々の祈りを一心に受け止めてゆらゆらと揺れる。

 その一週間、丘の近くに住む人たちは、そこに訪れた人々を家に招き、手製の料理や飲み物を振る舞う。実はこれがこの祭りの裏イベントになっていて、一番美味しい料理と温かなもてなしを行った家の娘は、翌年結婚できるというジンクスがあるらしい。

 五年前までは、丘のふもとで行われる、近所の少女たちによるハープ演奏も名物だった。毎年この一週間は文字通りお祭り騒ぎで、歌も楽器も無茶苦茶に入り乱れている村の中心に比べ、祭りの中心地であるこの丘は、むしろ静かに花と音楽を鑑賞できる場所として「フラスコ」からも多くの人が訪れていた。

 けれど、今ではこの丘も、村の中心と同じように静けさに満ちている。行き交う人の足音が、規則正しく響くだけだ。リネンの青い花だけは、変わらずその透明感を讃えている。

 早めに午前の仕事を終えた王は、二人の娘とソメイ、ヨシノ、ヨーテとともに丘に向かうことにした。お祭り初日の今日はちょうど祝日にあたり、丘のふもとは今日から始まる祭りに意気込む住人と、いち早くその雰囲気を確かめたい訪問客があちらこちらに見られた。みな、まだこの国に残る陽気な空気を自らの体に取り込むべく足を運ぶのだ。

 「我が国は徒歩で国中を巡ってしまえるのがいい。国民がみな、等しく同じ空気を吸う感覚が私は好きだ」
 王は誰に言うでもなしに、そうつぶやく。

 「こんないいお天気なら、サンドイッチを作ってくるんでしたよ。菜の花のフリッターと厚焼き卵のサンドイッチというのを、このあいだヤーパンという国の料理本で見ましたよ」

 「美味しそう! オムレツの次に美味しそう」とスズがはしゃぐ。

 「ヨーテはいつも、スズの好きな卵料理ばっかり! 明日はブルーベリーのパイを焼いてね」

 「スズ様はいつも料理を手伝ってくださるから、それでついスズ様のリクエストに応えてしまうんですねえ。卵は良質な動物性たんぱく質ですし」

 「ずるい。あたしの方がよく食べるのに。馬術とか射的とか、わりと体力使うからお腹空くのよね」

 膨れるレベッカの横で、ヨシノがにこにこしながら手を引かれている。

 女性陣は、王のことなどおかまいなしに楽しそうにはしゃいでいた。

 「なあ、ソメイ。お前は私の心に吹き荒れる嵐を共有してくれるか。この暖かな午後に吹き荒れる、春の嵐を」と王は、唯一の男である七歳のソメイに問うた。ソメイとヨシノは言葉が話せない。話せないのか、話そうとしないのかはわからないが、いつもにっこり微笑み、王の呼びかけに首肯する。王は、この二人が泣いているところさえも見たことがない。いつものように王の隣で目を細める彼を見ながら、低い確率でしか生まれない双子の片割れであるヨシノを、双子であったもう一人の娘に重ね合わせるのだった。

 丘の付近にさしかかると、静かなわりに人の出は多く、みなリネンの花の絨毯に見惚れている様子だった。リネンの主役は茎だ。強靭でしなやかな茎は、丈夫な亜麻色の生地を支える。その上におまけのように乗っかる青い花は、じきに茶色く褪せ、しぼんでしまう。儚さ。美しさを伴う有限性をそう呼ぶのだと地上の本で読んだことがある。あるいは、有限性を伴うことで完成される、その美しさ。その国では、「さくら」という短い期間だけ見事な花を咲かせる木があるらしい。妻のサンドラは、いつかその木を見てみたい、といつも言っていた。地上に降り、彼女はうまくその国に巡り会えただろうか。

 「ねぇ、お父様。お腹空いた」とレベッカが振り向く。

 あたりは、それぞれの家が振る舞う料理の香りで満ちていた。

 「スズも。パパ、どこかのお家に入ろう」

 娘たちには、まだまだ花の美しさはわからないのかもしれない。

 「いい匂いですねえ。これはスコーンかしら。サンドイッチ、やっぱり持ってこなくてよかった」
 色気より食い気のヨーテも、目を閉じて嗅覚に集中する。

 王たちは花の鑑賞もそこそこに、近くのあまり混雑していなさそうな民家を訪れた。比較的背の高い木を中心の支えに、円すい形の屋根が突き出している。厳しい寒さを越すために、トラリアの家は地中に部屋を作ることが多い。屋根についた窓と扉は、空気を密閉できるようにハンドル付きの前後に開く作りだ。いま目の前で開かれた状態であるその扉には、「オーラ夫妻の畑で採れたにんじんケーキ! 召し上がれ!」と貼り紙がしてあった。

 「六人の大所帯なのだが、大丈夫かな?」王は遠慮がちに家の中を覗いた。

 「はーい! どうぞ」下の方から元気な女性の声がする。

 「あらあら王様! いらっしゃい。ちょうど今、村の子どもたちが帰ったところです」ミセス・オーラがカップや皿を洗いながら満面の笑みを作る。

 「手狭ですが、どうぞお掛けください。いやいや、王様に来てもらえたとなれば、うちの株も上がりますな。もっともうちには、年頃の娘はおりませんが」

 ミスター・オーラは立ちあがり、座っていた椅子を王に勧めた。オーラ夫妻には、娘も息子もいない。あえて子どもを持たなかったのか、望んだのにできなかったのかはわからない。村の子たちが遊びに来てくれるから、寂しくはありませんよ――とオーラはいつも畑の泥のついた手で額の汗を拭いながら、朝の巡回をする王に挨拶をする。ソメイとヨシノの世話を申し出ようと思ったこともあったが、彼らの両親に黙ってそんなことをするわけにもいかず、オーラ夫妻をかえって傷つけてしまってはいけないと、王は結局何もできないのだった。

▼続きを読む▼
第8章(4)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

One thought on “【長編小説】『空色806』第8章(3)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。