【長編小説】『空色806』第8章(4)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)
「はいどうぞ、オーラ夫妻自慢のにんじんケーキですよ」
そう言って彼女が出してくれたのは、トラリアの伝統的なケーキだった。シナモンをたっぷり混ぜ込んでふわふわに焼き上げるにんじんケーキは、畑で採れるにんじんのように鮮やかな太陽のようなオレンジではなく、やや茶色味がかった色をしている。
「今日は特別な日だから、上のクリームにはヤギの乳を使ったクリームチーズを使っているの。あっさりしていて、ヘルシーよ」
ミセス・オーラはそう言いながら、いたずらっぽい笑顔で「たまごさん」にウィンクする。彼女はもう四十を過ぎているが、まだどことなく幼い感じを残している。透き通った少女とはまた少し違う印象だが、明るい努力家で真面目、おおらかさに潜む完璧主義な面を持つ一方、自分は弱く、庇護されるべき対象であると無意識のうちに知っているかのような幼さ。それは、彼女に子どもがいないことと関係しているのだろうか。その印象は、どことなくレベッカと重複していた。王は長女の持つ振れ幅の大きい強さと弱さに、頼もしさと痛ましさの両方を感じていた。サンドラが出て行ったあの日から、王はレベッカが必要以上に背伸びをしていることを知っていた。
「あら、お世話さま」ヨーテはミセスにウィンクを返し、早くもケーキの三分の二を胃に収めていた。子どもたちも、口の周りにクリームをいっぱい付けてケーキを頬張っている。
青と黄色の波模様が美しい、端の欠けた小さな皿から、はみ出んばかりに大きく長方形にカットされたにんじんケーキと、甘酸っぱいクリームチーズがたっぷり乗っかっている。皿に不似合いなほど大きなフォークは、ケーキを食べるにはちょうどいい。しっとりとした生地に色付けされたシナモンの香りと、少し粒の残ったにんじんが口の中で控えめに主張する。檸檬の香りがするさっぱりとしたチーズのクリームは、にんじんケーキのためだけに生みだされた名脇役に違いない。濃い目に淹れられた珈琲が冷めるのも構わず、みな黙々とケーキだけに集中していた。
「食べるだけじゃなくて、何か話してくださいな。ただでさえ、うちの主人は無口で、普段から私は一人でべらべら話しているっていうのに」
カチャカチャと皿とフォークが触れ合う音だけが響く部屋で、ミセス・オーラが自分の分の珈琲にクリームとメープルシロップをたっぷり入れて席についた。
「じゃあ、もう一切れケーキを」
王は空になった皿を差し出しながら、やっと珈琲をひとくち口に含んだ。
「王様、ヘルシーとは言っても……」
「あたしもおかわり! オーラさん、珈琲はブラックでお願いできる? あたし、甘いものが一緒の時は、ブラック珈琲じゃなきゃダメなの。お父様、口にクリームついてる」競うようにレベッカも皿を差し出す。ケーキのおかげで茶色がかった彼女の肌は、これから来る夏を先取りしているようにも見えた。
結局、レベッカと王は四切れずつ、ヨーテとスズと双子の兄妹も二切れずつ綺麗に食べてしまった。
夕食までに書類庫の整理を済ませなければならない、と言い、王はソメイとヨシノを連れて先に城に戻って行った。幼い二人は、言葉は発さないが恐ろしく記憶力がいい。王が望む資料を瞬時に探し当て、さらには適切な形で再編集して王の前に差し出した。彼らがここに来てから、王は一日に八時間眠る時間を確保できるようになり、体調もすこぶる良くなった。そればかりか、彼らはどんなに複雑な計算も、間違いをおかすことなく常に正確にこなした。
財政係のニーマは二人の援助を熱望していたが、王は幼い二人に必要以上に労働を強いることには気が進まなかった。何より、ソメイとヨシノは与えられた役割を文句も言わずにきちんと果たす代わりに(もしくは役割以上の働きをした)、何事にもあまり興味関心を示さなかった。喜怒哀楽の感情が抜け落ちているのではないかと心配するほど、彼らは幼さを見せない。もう少し成長すれば、好き嫌いも出てくるだろう。そうしたら、好きなことをさせてやろう。
レベッカが血相を変えて城に戻ってきたのは、日が西に傾き出す少し前のことだった。
スズがいなくなった――レベッカが息を切らしながらそう告げた時、彼女はひどく混乱していた。彼女にとってスズは、守ってやらねばならない大切な妹だった。かつて消えてしまったもう一人の妹の分も、彼女は今度こそしっかりとスズを守ってやらなくてはならなかった。妹がどこか自分の手の届かないところに行ってしまうのは、彼女にとって二度と起こってはならない出来事だった。
王はキッチンで温かいココアを淹れてやり、レベッカをなだめて詳しい話を聞こうと努めた。後から追いついてきたヨーテも、混乱こそしていなかったものの、青ざめた顔で王に詫び続けた。
「王様、申し訳ありません。あたくしがしっかりスズ様と手を繋いでいなかったばっかりに。なんとお詫びしてよいか、ああ」
「落ち着きなさい。お前を責めるつもりはない。何があったのか、順を追って話してくれるかい」
キッチンには、ルカ、ニーマ、リセ、ルル、朔そして「フラスコ」の出入り口の管理を担当するオーイシも駆けつけた。ヨーテの話によると、王が帰ってほどなく、残りの三人もオーラ夫妻の家を後にしたのだそうだ。そして、リネンの花畑に戻って、今度こそ背の高い美しい花を鑑賞していた。迷子にならないように、三人しっかりと手を繋いで。花畑の中で、レベッカが花を摘むためにヨーテの手を離した一時があった。しばらくしてもレベッカが戻ってこないので、ヨーテは大声でレベッカを呼んだ。すると、スズと繋いでいるはずの左手の先にレベッカがいたのだという。
「違うよ、あたしはヨーテの手を離したあとすぐに戻った。それに、その前も後も、あたしは右手でヨーテと手を繋いでいた」少し落ち着いた様子のレベッカが後を引き継いだ。
二人の話に噛み合わない点があるものの、とにかくスズは消えてしまった。
「スズ様はマイペースな方です。少し長いお散歩を楽しんでおられるのではないでしょうか」
「スズ様を探す間、ソメイとヨシノを財務室にお借りできますでしょうか」たるみきった表情でそう呟くリセとニーマを見て、王の不安は尚更大きくなった。
トラリアは今、病んでいます――目の前のリセの顔が、手紙を寄越したキベの顔に重なる。国民は音楽を求めています。あれはスズ様とホープ様、お二人の力があってこそでした。
王の脳裏に、恍惚の表情を浮かべる「聴いた」者たちの顔がよぎる。そんな彼らを羨む、自らの人生の痛みに耐え切れなくなった誰か、やるせなさと不甲斐なさから逃げたくなった誰かが、五年前の出来事を再現しようとしたのではあるまいか。王の中にそのような仮説が芽吹き、それはむくむくと育って確信に変わる。
この島の生命体を感知できるはずの鳥一族には、スズを感知することはできなかった。それはすなわち絶望的状況を意味していたが、ルカは鳥一族のうちから三人、仲間を連れて空からの捜索を申し出た。ルルは森の中、オーイシはフラスコの中を隈なく探してくれると約束した。残りの者たちで、丘や村の中を手分けして探した。
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第8章(5)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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