【長編小説】『空色806』第8章(6)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 事件は前触れもなく起こり、いじわるに迷路の中へ人々を閉じ込め、散々と弄んだ末に気まぐれに展開を見せる。3968番の、今にもぽつりぽつりと雨が地面を濡らしそうなどんよりと曇った空色の日、スズは突然戻ってきた。それは、彼女が消えてしまってからちょうど二週間が経った日のことだった。代わりのきかない仕事をこなしつつスズを探していた王は、ほとんど眠らずに二週間を過ごした。城に仕える他の者たちも似たような状況で、みなかなり疲弊していた。国の者たちに隠し続けるにも限界が来ており、国をあげた捜索を検討し始める時期だった。

 その日の朝、オーイシとニーマがいつものようにスズを探しに行こうと城の外に出た時、スズは王宮をぐるりと取り囲む堀に掛けられた鉄橋の上で、静かに堀の中を見つめていた。二週間も行方不明だったにも関わらず、彼女には少しも疲弊している様子はなかった。少なくとも、肉体的におかしな点は見受けられなかった。第一発見者の二人はスズの帰還を大いに喜び、城中に知らせて回った。黒々とした雲の隙間から、太陽が射したようだった。実際に、雲は晴れつつあったのかもしれない。しかし、そんなことに構っていられないくらい、城の中は大騒ぎになった。

 スズの様子がおかしいことにみなが気付いたのは、彼女に温かいミルクを飲ませながらキッチンで話を聞き出そうとしている時だった。スズを見つけた二人に加えて、ちょうど城の中にいた朔とレベッカ、ヨーテがそこに同席していた。リセは勤務時間外だと言って、部屋から出てこなかった。

 「スズ、いったいぜんたい、この二週間どこに行っていたの?」

 沈黙。

 「スズ様、昼食は好物のチーズオムレツになさいますか?」

 沈黙。

 「誰も怒ったりしません。みんな、スズ様が帰ってきてくださって嬉しいのですよ」

 沈黙。

 スズは、あらゆる言葉という言葉を失っていた。表情も。あるいは感情さえも。
 ヨーテが「チーズオムレツ」と言った時だけわずかに視線を上げたが、あとはまた元のように、静かにミルクを口に含むだけだった。それは、公務で外出していた王が城に戻り、スズを優しく強く抱きしめた後も変わることはなかった。

 「よく戻ってくれた。誰かにさらわれたのか? この小さな島国で、迷子になったわけでもあるまい」

 沈黙。

 一点の曇りもない真っ白なキャンバスに、ただ一滴落ちた黒い絵の具のように、彼女の無意識下の闇は存在していた。その闇は、ありありと見える形で確かに彼女の中にあった。もう再び無垢の白を取り戻すことはできないけれど、それ以上広がることもなさそうに思えた。

 「きっとショックで口がきけなくなったのだろう。かわいそうに」王は、まるで懺悔するかのように眉をひそめて目を伏せた。

 「でも、戻ってきてくれて本当によかった。もう二度とあんな――」レベッカの言葉は、ぎゅっと真一文字に結ばれた唇の中に消えていった。

 スズはそれから丸三日間眠り続けた。いや、その間をほとんど眠って過ごしたという方が正しいかもしれない。生命を維持するための最低限の食事を摂り、用を足し、あとはまた意識を失って規則正しい寝息を刻み続けた。相変わらず一言も言葉は発さなかった。その様子は、頑なに口を閉ざしているというよりは、むしろ人々の間に介在する言葉というものの存在を忘れてしまったようにも見えた。何かを話しかけると、にっこりして左手をぐっと握る。あるいは、幼子がいやいやをするように髪をかきむしる。けれど、言葉の中身そのものは理解していないようだった。

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第9章(1)「それは一時的に中断せざるを得ない」(キベ 七十四歳)

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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