【長編小説】『空色806』第9章(1)「それは一時的に中断せざるを得ない」(キベ 七十四歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 その三日間、朔の生活にも変化があった。スズが失踪しているあいだ、夕食後のキベの家での練習は中断されていた。何しろ夕食もまともに摂ることができないほど、城の中は混乱していたのだ。忘れていたわけではなかったが、とても呑気にピアノなど弾いている場合ではなかった。キベにも断りの連絡を入れる手段がなかった。タブレットPCはあるのに、電話はない。この国のいびつなテクノロジーの発達スピードをこの時ばかりは少し恨めしく思った。

 スズが帰ってきた日の夕食後、朔は二週間の無沙汰を詫びるため、久しぶりにキベの家に行った。ルカにスズのことを聞いていたらしく、キベは朔が束の間来訪しなかったことについては承知していた。朔は、遅い夕食をかき込むキベと仕事終わりのルカに、スズの様子を話して聞かせた。

 その時の二人の落ち込みようは、トラリアの歴史の教科書に載せてもいいくらいだと朔は思った。まるで、国中の人が訪れる教会に大きな雷が落ち、跡形もなく消えてしまった時の衝撃を受けたクリスチャンのような顔をしていた。もちろん、トラリアには歴史の授業はない。けれど、そのためにわざわざ歴史の授業を作ってもいいというくらい、彼らの落胆ぶりには人類の未来をふいにしてしまったという深刻さすら見て取れた。

 「けれど、スズは帰ってきたんですから。それだけでも十分じゃないですか。きっと、今はショックで話ができないだけです。言葉が話せなくても、今までのスズに変わりありません。さあ、ピアノの練習をさせてください」

 「もう意味が無いんだ! ピアノも、何もかも! 時間がないのに、もう手遅れなんだ」キベは声を荒らげた。

 ただでさえ不気味な格好をし、朔よりもずっと背の高い彼は、本当の化け物のようだった。外見について差別的視線を彼にぶつけないように努めてきたが、理性は感情に敗北した。恐怖。自分とは明らかに違う不明瞭な何かに対する、無条件の恐れ。それは生命体の防衛本能として、朔に生まれつき備わっているものらしかった。

 「いいえ、朔様。もういいのです。我々の試みは、少なくともひとまずここで中止せざるをえないでしょう。これからは、夕食後も城の中でお過ごしください。そして、スズ様に変化があればすぐに知らせていただけると幸いです」

 ルカがいてくれることはありがたかった。おかげで、恐怖で凍りついてしまう前に現実に意識を戻してくることができた。そして、そういえばルカも確かに人間とは違った外見をしていることに気づき、苦笑する。差別的視線。自分こそが異分子であるここでは、朔のそのような感覚は全く合理的意味を持たない。これからも、ルカにだけは知らせるようにしよう。この人はわたしをここに導いた人だから。

 ああ、わたしもここに来られないことを知らせたかったのだ、とそこでようやく朔は思い出す。

 「ここでは、人々はどんなふうに連絡しあっているの? 電話やメールもないし、住所のようなシステムもない。特定の個人にコンタクトを取る手段がないように思うの」

 「本当に伝えたいことは、ちゃんと伝わるのです。地上の人々は、自分たちが生み出した機械に溺れ、自分の頭で考えたり、心をこめて何かを伝えようとしたりしない。だから、相手に何も伝わらなくなる。地上で戦争が絶えない理由がわかりますか」細いまぶたから、ルカの目線がわたしを鋭く捉える。じっ。

 戦争。せんそう。センソー。朔は、正直言って戦争という響きに現実的実感は持てなかった。朔の祖父がいつも鼻高々で話す戦時中の勇姿は、朔にとっては本や映画の中の話でしかなかった。教科書やテレビの特集などでその悲惨さが強調される戦争は、目の前の祖父が話す時にはもっと生き生きとした営みに感ぜられた。それはまるで義務化されたオリンピックのように、選ばれし者たちが自らに課せられた使命を達成する尊い行為であると、少なくとも当時の人の大半は信じて疑わなかった。伝えられる歴史的事実と、当時を生きる人々の意識のギャップに、朔は正しい戦争の歴史を今ひとつつかみ切れないでいた。けれど、また自分たちの国が戦争を始めだすかもしれないことについて、論理的理由はともかく、己の本能が激しく拒否していることは確かだった。

 「戦争は……」

 「冗談です。いくら空に住む我々でも、テレパシーまでは身につけていません。もっとも鳥一族は、国中の生命体を感知することだけはできますが」

 そう言うとルカは、懐から小さな機械を取り出した。それは、朔が小さい頃に夢中になったゲームを思い起こさせた。たまごから孵る奇妙なアメーバのような生物にエサを与え、糞尿を掃除し、教育を施して育てていく。あるいは、テトリスもこういった機械だったかもしれない。

 「これは、二十年前にわたくしのいとこが日本から持ち帰ったものです。相手に数字を送ることで、メッセージを交換できるのです。ここに数字が表示されるようです。幸い作りが簡単だったので、トラリアの国民にも同じものを作って配ることができました。ただ、誰も使い方がわからないようですし、必要とも感じていないようです。彼らは相変わらず、集まって顔を突き合わせて話すほうが良いようですから」ルカは苦笑いする。

 ポケベルだ、と朔は思った。生で見るのは初めてだ。

 「これで我々三人は『ベル友』です。コンビでもカルテットでもなく、トリオ。美しい三角形です」ルカは子どものように無邪気に、でもどこか寂しそうに笑った。

 「朔様が地上の方で助かりました。では、ご連絡お待ちしています。実を言うと、わたくしも使い方がわからないものですから」
 昼休みになると、いつも公衆電話が行列で――。母親がいつか懐かしそうに話していた。それは確か、電話がないと使えないのだ、ということは、朔には言い出せなかった。何かあれば、また一時間かけてここに歩いてくればいいのだ。簡単なことじゃないか。

 スズは相変わらず言葉を話さなかった。そして、言葉とともに、以前のスズもあらゆる意味で損なわれていた。彼女は城の者を自分に親(ちか)しいものとして認識していないようだった。しかし、朔は今のスズが妙に自分の中の何かと呼応している気がしてならなかった。おそらく、物事はこれで終わらない。まだ何かが起こる。その確信は、良くも悪くも、朔にとっては残された唯一の希望と同義だった。

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第10章(1)「人生があなたを打ち砕こうとする時」(地上の母 ××歳)

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ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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