【長編小説】『空色806』第10章(1)「人生があなたを打ち砕こうとする時」(地上の母 ××歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 今、あの子が消えた――。地上で母は、たった一人の娘の門出を感じ取っていた。母というものは、例えすぐそばにおらずとも、我が子の消息を感知する機能が備わっているのかもしれない。あの子はもう帰ってこないかもしれないし、あるいはふとした拍子に何事もなかったかのように帰ってくるかもしれない。でも、あそこに行ったことは確か。懐かしい、空島。父を知らずに育ったあの子には、寂しい思いをさせてしまっていたことだろう。向こうでお父さんに会えるのだろうか。あの人は、変わらず心優しい王様だろうか。私たちの犠牲は、少なからずトラリアの平和に貢献できたのだろうか。いや、犠牲なんて言い方はあまりにも自己満足的で、おこがましい。けれど、あの時は本当に胸をえぐられる思いだった。せめて、トラリアの今が幸せで満ちていますように。でなければ、いったい私たちは何のためにここにいるのだろう。

 彼女がほんとうの意味で地上に腰を落ち着けるのは、ここに到着してから半年ほど後の話になる。右も左もわからない、住処もない、お金もない。出生も知れない。そんな母娘がそれなりに暮らしていくには、最初のうちは相当シビアな暮らしを強いられた。夫には言えないようなこともしなければならなかった。

 リセの部屋を後にする時は気丈に振る舞っていたものの、彼女は幼い娘を連れて半ば絶望的な気持ちでここにやってきた。しばらくはその絶望感と過酷な地上での暮らしから、トラリアでの決断を後悔した日もあった。トラリアでも決して贅沢をしていたわけではなかったが、今日食べるものや、眠るところを心配することがこれほど恐ろしいことだとは思いもしなかった。毎日空を見上げ、自分の質量が軽くなり、そのままトラリアのあるところまで行ければいいのにと思ってばかりだった。もちろん聡明な彼女は、肉体を持つ自分が重力に抗えないこと、例え空を昇っていけたとしても、ここがトラリアのある時代とは限らないことを承知していた。彼女を支えていたのは、手を握った先にいる、小さな命だけだった。

 しかし、トラリアにいた頃の多趣味が幸いして、彼女は地上に降りた後しばらくすると、いくつか悪くない職を見つけることができた。ほらね、あなた。飽き性だなんて私をからかっていたけれど、色んなことを浅く広く知っているということも、時には役に立つのよ。妻は天空を見上げ、独り言ちる。

 それに、彼女は要領も良かった。はじめは負担に感じた地上の重力の強さにも、もう慣れた。空島にいた時も、海の下に広がるフラスコにいた時も、これほどの重力は感じなかった。それらの中間に位置する地上には、何かしら特別なものがあるに違いない。お金の使い方も、人々との通信手段も、市役所というところでの手続きも、ひとつひとつ学んで、一応は習得した。食べ物だけは合わなかったが、部外者である自分がここの食べ物に慣れるには時間がかかるのだ、と最初のうちは目を瞑ろうとした。

 地上に来て彼女を唯一いい意味で驚かせたこと、それは「大地の大きさ」だった。島中が歩いて渡れてしまうくらい、こぢんまりとした空島の大地とは比べ物にならない、大きな大きな大地。それは地球をまるごとそっくり包んでしまうほど大きく(それは実際には、地球のおおよそ3割に過ぎず、残りの7割は海だと知った時はさらに驚いた)、それがちゃんと地球の中心につながっている。ルルが来たらさぞ喜ぶだろう、とぼんやり思う。

 厳密に言えば、彼女が「ほんとうの大地」だと感じられる場所はあまり多くはなかった。むき出しの大地。土ぼこり。草花。けれど、そういった場所は、確かに存在した。自分の足の裏が、体の重みが、そのまま大地を通して地球に預けられている。その感覚は、彼女にとって新鮮だった。そんなこともあって、最終的に彼女は、大地とじかに触れ合える農業を、ここでの職として選ぶことにした。「近代化」と地上の人は呼ぶらしいが、あまりに空島とかけ離れた景色や文明が広がるここで、穀物や野菜を作ることは、彼女に「生きる実感」を与えてくれそうに思えた。

 もっとも、農業ですら彼女を戸惑わせるには十分「近代化」されていた。ここの食べ物は、空島のそれらとはあらゆる点において違っていた。それは、食べ物の種類という点ではなく、その循環においてというほうが近い。手間暇と愛情さえかけてやれば、その土に合った作物が然るべき時期に実を結び、その空気に合った動物が育つという法則はここでは適用されず、人々は違った季節の野菜を食べ、草の生えていない牢屋に鶏たちを押し込み、時にはとても「食べ物」と呼べそうにない、おかしな色のものを口にしていた。

 まだ住処も決めていなかった彼女がここに来て最初に口にしたものは、とてつもなく苦いクッキーと、何だかゴムみたいな味のするチーズと、透明なパックに詰められた、一週間も日持ちするぶよぶよのパスタだった。それは、巨大な箱の形をした市場のような施設の裏に、大量に置かれていた。その夜は、彼女のほかにもみすぼらしい格好をした老人たちが群がっていた。

 「ここに来ると、食べ物には困らない。選り好みさえしなければ、自分はロボットにならなくても、ロボットの恩恵に与れる。いい時代だ」
 くしゃくしゃに伸びた髪をほとんど気にもかけない様子で、老人のひとりが彼女に告げた。彼は汚らしい格好をしてはいたものの、どこか吹っ切れたような、さっぱりとした澄んだ目をしていた。それが妙に彼女の心に残った。後で聞いた話によると、それらの食料は誰かの手ではなく、ロボットによってほとんどが生産されているらしかった。そのロボットの出現によって、これまで何万年も、何十万年も続いてきた食物連鎖の鎖は、どんどん錆びついて、近い将来断ち切られてしまうかもしれない、と彼女の今の雇い主は憂いていた。

 同じロボットでも、オーイシはこうじゃなかった。ここにいるのは、感情を持たないロボット。そして、ロボットのような人。これらは彼女を混乱させ、恐れさせた。農業という点をひとつ取っても、彼女にはあまりにも不自然に感ぜられることが多かった。冬に採れる赤くて甘いトマト。まっすぐにするために、狭苦しい透明なパイプを被せられるきゅうり。わざわざ遠くの国まで届けるために、まだ青い未熟な状態で木から切り離されるバナナ。そういった事態を、人々は歓迎しているように見えた。どんな遠くの国のものでも、いつでも食べたい時に食べたいものを食べられる。それは、単なる食欲ではなく、娯楽だった。食欲、睡眠欲、性欲。その生理的な三大欲求を満たすために日夜活動している数多くの動物たちの中から、人類が頭一つ抜けた歴史的瞬間であったのだ。もちろん、人間とその他の動物を分かつ要素は、それだけではないだろう。それに、文明というものが存在していても、飢える人が絶えない時代もあった。天災によって。戦争によって。ある階級の人々の独占によって。それは、この地上のどこかで、今も続いているらしい。けれど、少なくとも彼女たちの目の届く範囲内においては、食べ物は文字通り「腐るほど」有り余っているように見えた。

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第10章(2)「人生があなたを打ち砕こうとする時」(地上の母 ××歳)

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