【長編小説】『空色806』第10章(2)「人生があなたを打ち砕こうとする時」(地上の母 ××歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 彼女は決意した。私は、ちゃんと「農業」をやろう。土をこの手で触り、のびのびと野菜を育てよう。しかし、異国から、それも空の上からやって来た彼女が、気軽に適当な場所で農業を始められるほど、地上は寛容ではなかった。大地は広くとも、トラリアのそれよりはある意味でとても狭苦しかった。誰かの土地。税金。営業許可。そう言った実際的なことが、彼女の決意を阻んだ。

 それでも、曲がりなりにも半年近くも暮らしていると、この地上には実に様々な価値観や世界を持った人がいるのだということが、何となくわかってきた。誰もがここのロボットのように無感情にシステム化されているわけではなく、ちゃんとした暮らしを――少なくとも彼女にはそう見えた――営んでいこうとする人が少なからずいることを知った。彼女は早速そういった人々のうち、たまたまインターネットで見つけた、有機農業を営む人物に連絡を取った。そこは都会からは少し離れた、かと言って秘境めいた田舎というわけでもなく、子どもにきちんと教育をつけるには悪くない土地だった。そこには、巨大なシステムに組み込まれて効率化されるに従い縮小していく、個人の農業というフィールドにおいて、諦めるでもなく見切りをつけるでもなく、野菜の声をちゃんと聞きながら育てることにこだわり続けている人々の小さなグループがあった。

 そのグループを取りまとめる男性は、聞くところによるともう彼女の夫よりもかなりの高齢だったが、自分の息子が後を継いでくれるから大丈夫なのだ、と破顔していた。

 「ありがたいね、このご時世に農業なんざ継いでくれるなんてさ。それに、息子にはマーケチングの才能があるみたいなんだ。こうしてあんたみたいな人が連絡を寄越してくれるってことは、世間様にある程度うちの野菜が知られてるんだろ。都会の大学へ行かせたのは、なまじ無駄じゃなかったってこったね」
と、彼は息子がいないところでこっそり彼女に自慢した。

 そして、彼女と幼い娘は、その男性の家に住み込みで働かせてもらうことになった。彼らを信じていないわけではなかったが、その頃の彼女はほとんど人間不信みたいなものに陥っていた。偽名を使い、出生も偽った。それでも、彼らは幼子を連れた女を温かく迎えてくれた。彼女は、トラリアでいた頃の彼女である自分を捨てた。娘にも、名前を捨てさせることになった。希望。この子の名前に込めた願いだけは、いつまでも私の胸の一番奥に大切にしまっておこう。そして娘には、ずっと憧れていた地上の木「さくら」から借りた、新しい名前をつけた。

 娘は学校に通い始める年齢になった頃、母によく問いかけをした。

 「どうして給食では、冬にもトマトが出るの?」

 「冬にもトマトを食べたい変わった人がいて、うんと考えてその方法を見つけたのよ。ある意味すごいわよね」

 「どうして嫌いな豆のスープを残しちゃいけないの?」

 「美味しくないと思うくらいなら、食べないほうがいいわ。でも、出された食べ物を残すのはもっとダメ。あなたは自分が生きるために、豆の一生を背負ってるの。だから、自分で食べ物を作ったり買ったりして、料理ができるようになるまでは残さず食べなさい。あなたの好きなにんじんのパンケーキも、そうでない豆のスープも。大人になる頃にはちゃんと自分の身体が求める食べ物を見分けられるようになるはずだから。ここの食べ物を食べていれば」

 「どうして人は、いつ死ぬかわからないの?」

 「そうでもないと、死ぬ時のことばかり考えて人生を過ごすことになるからよ」

 「どうして先生は、わたしをいじめる子を叱らないの?」

 「教師ってのは、難しいのよ。先生も不完全な人間なの。いいこと、何でも先生の言うことが正しいだなんて思っちゃ駄目よ。そんな子、あんたがぶってやりなさい」

 「この世で一番えらい人は、誰?」

 「自分と他人の両方を大切にできる人、かな」

 「ママは、わたしが娘でよかったと思う?」

 「愚問ね」

 「グモンって何?」

 「愛してるってことよ」そんな一連のやり取りの後に、娘を抱きしめるのがたまらなく好きだった。母は、この幼く無邪気な娘に、ちゃんと答えているようでできるだけ“正解”を見せないように答えようと心がけていた。自分の頭でちゃんと考えられるように。自信を持って、人生を選んでいけるように。

 「どうして1たす1は2なの?」

 「それは、算数の授業だからよ。数字だけの世界では、そうなの。でもこの畑では、農家のおじさんと、息子のルウ兄ちゃんは1たす1で100にもなるくらいのいいコンビ。これは、職人と経営者が起こした奇蹟なんだって。1と1が合わさって、もっと大きな1になることもある。あなたが今大好きなジグソーパズルは、1たす1たす1たすっていうのを300回繰り返して、やっと大きな1になるの。お父さんとお母さんが出会うと、2よりもたくさんの数字になる。あなたが生まれてくれたから」

 「じゃあどうして……」

 父親がいない。それは、やはり簡単なことではなかった。父にも母にもなろうとしたけれど、やっぱり自分に父親はできなかった。幼い娘の「どうしてわたしにはパパがいないの?」という問いかけにだけは、いつもうまく答えられずに、声を詰まらせてしまうのだった。

 娘はそんな母の苦労を知ってか知らずか、素直で優しい子に成長した。そして、年齢のわりに恐ろしく頭の切れる、勘の鋭い子だった。娘には、父親がいないこと以外は、教育を含めてほとんど不自由ない暮らしをさせてきたつもりだし、これからも私の命が続く限り守り続ける覚悟はある、と彼女は思っていた。ただ娘には、いつも周りの顔色を伺い、いい子であろうとするところがあった。母の想いに反し、娘は無意識のうちに正解を探す子どもになっていた。それはいずれ娘の弱さとなって娘自身を苦しめるだろうということも、母は承知していた。しかし、逆境にも立ち向かって強く育って欲しいと思う反面、あまり苦労をさせたくないというのもまた親心だった。

 子どもを産むまでは、こんなふうに自分の大切なものを捨ててまで、命を懸けてまで、守りたいものなんてなかった。トラリアに残してきた二人は、ちゃんと幸せに暮らしているかしら。彼女たちに手紙の一枚でも届けられたら。けれど、トラリアの有無に関わらず、少なくとも彼女はここが「皇鳥便」のない世界だとすでに知っていたし、鳥一族が運良くこの時代のこの土地で自分たちを見つける可能性などほとんど皆無に等しいことも知っていた。トラリアに、皇鳥便のない時代はあったのかしら。自分の生きた分しか歴史が残っていないせいで、彼女はそのことを知るに至らなかったし、またそのおかげで、頭上に空島がある可能性を消さずにおれるのだった。

 だから彼女は、毎日空を眺めることを欠かさなかった。今、娘は空の上にいる。今日の空は、3968番目の色。よりにもよって、こんなどんよりとした陰鬱な空の日に旅立つなんて。昨日なら、806番目の、わりに綺麗な青空だったのに。雨女なのは、私譲りなのかしら。そうやって上を見上げても、空島は見えない。今日もルルが、空島中の白樺の木を3968番目の色に塗っているのだ。彼女自身の提案のおかげでルルは自らの存在意義を見出し、彼女はいま空島を見つけることができない。そんな皮肉とも思える状況でさえも、今空島が見えないのはこの世界に空島がないからではなく、ルルがうまく空島を隠しているからだ、という希望の光を彼女の心に灯してくれる。そうして、母は再び下を向き、養分をたっぷり蓄えた土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。

 暇さえあれば上ばかり見つめていたあの頃より、こうして下を向いて黙々と作業をしている今のほうが、よほどちゃんと地に足をつけた暮らしをしている気がする。「下を向かないで、上を見上げて。そしてたくさんの星を見るの」という有名な詩には、確か「人生があなたを打ち砕こうとする時」という但し書きがあった。そういう点において、私は強くなったのかもしれない。そう母は思った。

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第10章(3)「人生があなたを打ち砕こうとする時」(地上の母 △△歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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