【長編小説】『空色806』第10章(3)「人生があなたを打ち砕こうとする時」(地上の母 △△歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 「今日はまた、随分と精が出るね。あたしが来る前から仕込みやってくれてるんでしょ? ちっとは休憩しなよ。言ってる間に、店を開ける時間になっちゃうから」

 オーナーが声を掛けてくれる。この仕事を始めて、ちょうど一年になる。そろそろ私も慣れてきた。女手一つで娘を育てるというのは、言葉で言うほど簡単なことではなかった。けれど、それなりに自信もついた。やりがいもある。今はもう、借りぐらしとはいえ自分たちの家も持てている。私はここで、一応のところちゃんと居場所を見つけることができた。娘はまだ、宙ぶらりんな気持ちを背負ったままだったろうか。あの子はいつも、何かを探しているような目をしていた。自分と対を成す、もうひとつのピースを。

 「はい、ではお言葉に甘えて少し休憩をいただきます」

 そうして店の奥の椅子に座り、珈琲とビスケットを口にしながら、彼女は前の職場のことをぼんやりと考えていた。あの親切で職人気質な人たちは、結局外国から輸入される安い野菜の山に太刀打ちできず、大手企業の下請けに入る道を選んだ。現実は厳しいね、悪いね、せっかく頑張ってくれてたのに――そう言って寂しく笑う彼らは、まだ世界への希望を捨てずに生きているだろうか。

 私がいま働いているカフェのオーナーは、「体に優しいものを、一緒に食べる」をコンセプトに、二年前に店を始めたばかりだった。そこで彼女は、朝からランチとデザートを仕込み、オーナーが仕入れる珈琲豆を挽き、客に提供した。使う材料や調理法にはこだわったが、決して宗教的で押し付けがましいところのない、けれど嘘偽りのない美味しい食べ物。そういうものを、好きな人たちと食べてほしい。ひとりで寂しければ、ここに来ればいい。そんな付かず離れずなスタイルに惹かれ、彼女はここで働くことを決めた。カフェは採算性が悪いから――そう言いながらも目を輝かせて毎日忙しく客をもてなすオーナーを見て、こういうところが続いていかないのなら、死んでしまうのなら、地上なんてクソ食らえだわ、と彼女は鼻息を荒くし、また笑顔で職場に戻るのだった。

 娘の門出を感じた日、ただいまあ、といつものように家に帰ると、案の定娘はいなかった。心にぽっかり開いた穴に、これから私は何を守るために生きていけばいいのだろう、という想いがせきを切って流れ込む。その穴は彼女の想像よりも大きく、そして深く、どんな想いを持ってしても――例えそれがネガティヴな感情であったとしても――満たすことはできないように思えた。より一層、毎日忙しく働こう。考えなくても済むように。そのうちひょっこり帰ってくるかもしれないわ。いつもより時間をかけて夕食をこしらえ、一人で済ませた。いつもの癖で二人分作ってしまった夕食を、それでも一人で食べてしまった。そしてさっさと布団に入って眠ってしまうことに決めた。

 「何か辛いことや悲しいことがあった時は、とにかく眠ってしまえばいい。翌朝になれば、少しだけ事態は良くなっている。事実は変わらなくても、一晩分だけ成長した君が受け止める現実は、ほんの少し丸みを帯びるのだ」

 今はもういないかつての夫が、こう言ってくれたことがある。娘が体に少しばかり欠陥を持って生まれた時、私は悲しみと罪悪感のあまり、食べられなくなり、眠れなくなった。そんな時、いつも夫が支えてくれた。自分だって多忙な毎日を送っているはずなのに、それをおくびにも出さず、娘にでれでれする姿を私に見せ(本当に彼は、私が妬くくらいに娘を愛した)、毎日感謝を述べた。おかげで私は、少しずつ前向きに生きられるようになった。いまはまだ弱い娘を守り、いつか彼女に強く逞しく世界を生きてもらうために、生まれてきてよかったと言ってもらえるように、まずは自分自身を強くしようと思った。

 「強くなんてならなくていいのさ。頑張らなくたっていいんだ。何もかも、君のしたいようにすればいい。もし僕の願いを聞いてくれるなら、できる範囲でいいから笑っていてほしい」

 彼は、決意したそばから私の宣言をなだめすかしにかかる。彼の言葉やしぐさは、強がって尖って、結局自分も周りも傷つけてしまう私を、真正面から、というよりも後ろから包みこむように愛してくれた。時に彼自身をも傷つけていただろう。ねえ、あなた。どうして今はそばにいてくれないの。私に恩返しさせてよ。そして、もし私の願いを聞いてくれるなら、ひとりにしないで。

 意識が段々と薄れ、深い深い混沌の世界に身を委ねる。彼女は眠りに落ちる前のこの瞬間が好きだった。眠りに落ちる瞬間をはっきりと意識できないままに、肩の力が抜ける感覚。やっと息がつける。

 そして、そっと玄関の扉が開く。ほら、帰ってきた。随分と短い旅だったこと。あら……あの子は。まあ、こんなことが。まさか。

 あの時、用心深く胸の奥にしまいこんで、固く錠をかけたはずの心の欠片が、母の頬を伝った。

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第11章(1)「おかえり」(王 四十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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