【長編小説】『空色806』第11章(1)「おかえり」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 天気の悪い日というのは、太陽が沈み全てが闇に包まれた後も、その重苦しい空気を完全に消してはくれない。3968番目。それはトラリアの曇りの色では、かなり末席に位置する色だった。いや、末席と言ってしまうと、ルルに叱られるかもしれない。

 「3000番目の日があるから、1番の日にはサンドイッチを持って出かけたくなる。4000番目の日があるから、作物は潤いを得て秋に実を結ぶ。5000番目の日があるから、人は天災というものの存在を知る。その5000の色は、人に相対としての幸福感を生み出し、己の無力さを知らしめ、当たり前を有り難さに変える魔法を持っている」ルルが、新人のペンキ係にこう指導しているのを耳にしたことがある。

 彼は深いことを言うな、と朔は感動したのだった。

 「なるほどですね!」まだ言葉の使い方もままならない、やんちゃ坊主に毛が生えたような新米のペンキ係は、彼の言うことをどこまで理解したのだろう。いや、言葉というものは便利だけれど、結局のところ、そこに秘めた心のうち三割くらいが伝われば上出来な方なのかもしれない。

 スズが戻ったその日、つまりキベの家での一件があった日の夜、朔はそんなことを考えていた。状況はめまぐるしく変わっているのに、この元王妃の部屋の眺めだけは、毎晩変わることがない。それは、朔が特に新しくものを運び込まなかったこともあるし、あまりこの部屋の中で過ごしていることがないせいかもしれなかった。いずれにせよ、朔にとってはこの部屋だけが時間が止まっているかのように感じていた。あるいは、本当にそうなのかもしれない。わたしが過ごしてきたと思っていた数ヶ月は、実際には流れていない時の流れなのかもしれない。そう考えだすと、目に見えるものさえも、信じて良いものかわからなくなる。

 部屋の四隅でゆらゆらと淡いオレンジの光を放つ蝋燭。いつもは朔の思考を深いところに導く優しい沈黙を与えてくれるのに、今日はそれらが朔をあざ笑っているかのように感じる。

 わたしがここに来た日、この蝋燭はどんなふうに見えたろう? 空はどんな色をしていただろう。今日みたいにどんよりと曇っていたっけ? それとももっと綺麗な青空だったっけ? さほど遠い昔のことではないはずなのに、うまく思い出せない。

 腰と首がいたい。右手に持っている本にしおりをはさみ、右側にある小さな丸いテーブルに載せる。地上では文庫本ばかり読んでいた朔にとって、ここの本は片手で持つにはやや重すぎる。かと言って、ベッドの背にもたれて両ももの上に本を載せて読む姿勢は、思いのほか体に負担をかけているようだった。ここのところ、本を開いても一向にページを繰る手が進まない。もっともその原因は、本の重みだけにあるわけではないだろうけれど。深い緑の表紙に『海に浮かぶ大地』の文字が斜めに書かれただけのシンプルなその本は、どうやら地上を研究しているこの空島の学者によって執筆されたものらしかった。

 朔は、首を回すついでに自分の腕をそっと触ってみる。腰を伸ばしながら腹を触ってみる。本の重みから開放された足を曲げてみる。信じられないことばかりが起こっているのに、朔の体はちゃんと存在している。わたしが動け、と命ずれば、わたしの体は動く。頭と心と体がつながっている。それは、朔をトラリアの現実へと引き戻してくれた。そして、以前よりも筋肉質になった朔の体は、ここでの確実な時間の経過を確かめさせてくれた。

 あれ、と違和感を覚える。あたりの様子が見える。

 四つの蝋燭を消し終えてベッドに潜り込んだ朔は、まだ部屋の中にほのかな光が残っていることに気がついた。蝋燭の持つ暖かなオレンジ色とは違う、西洋の人の瞳のように透き通った薄いブルー。そして、目を凝らさずともその光の正体がくっきりと見えた。

 ああ、これは夢だ。
 夢の中でそう確信できる類の夢を見ているのだ。朔は恐怖心でも好奇心でもない、妙な納得感とともに、その光景を見守っていた。

 朔は、極度の近眼だった。だから、まさに今から瞳を閉じて眠ろうとしている時に、何の矯正もなしに部屋の対角線上にあるものを見分けられるわけがなかった。そういうところにだけは、やけに冷静な自分がいた。いや、わたしはここに来てから一度もコンタクトレンズをつけていない。朔は異様な非現実感に、今更ながらに気づいた。わたしはここで、なに不自由なくものを見ることができている。現実的な体を持ちながら、自分がいかに非現実な空間に入り込んでしまっているのか、もう自分の頭で現実と非現実を区別するには物事は進みすぎている。

 そこには女の子がいた。それも二人。姿かたちがそっくり同じだったため、あるいは鏡に映った一人の女の子だったのかもしれない。彼女たち(もしそれが物質的な意味で二人の女の子だとすれば)は、互いの額と両手をくっつけあい、目を閉じていた。そして、音もなくただそこに存在していた。そして、それはどちらも紛れもなくスズだった。二人のスズ。

 ふいに朔は、スズのうちの一人になっていた。

 「久しぶり」スズがわたしに言う。彼女の後ろには、森の中のような長い小径(こみち)が続いている。わたしははっと後ろを見る。そこには、同じように長い道が続いていた。わたしの方のそれは、少しだけ灰色がかって見えた。細く、険しく、寒い道。わたしが歩いてきた道だ。けれど、それを苦痛に感じたことなんてなかった。それが当たり前だったから。

 「ずっと感じてたよ。あなたがどこかにいること、スズの足りないところを持っている人だってこと。今までありがとう。苦労したね」

 「スズ」もう一人のスズであるわたしは、ほとんど自動的にそうつぶやいていた。

 「わたしは……」

 「お願いがあるの」スズは、私の言葉を遮る。

 「あなたにしかできない。トラリアは、変わらなきゃいけない。それがいいか悪いかはスズにはわからない。でも、こうしなきゃいけないってことだけは、わかるの」

 瞬間、強いめまいを覚える。咄嗟に目をつむり、再び足がきちんと地に着く感覚を確かめてから、もう一度目を開ける。

 先ほどと何も変わっていない。目の前に、スズがいる。

 「行って」スズがわたしの後ろを指差す。振り向くと、先ほどまでスズの背後にあった景色が、わたしの後ろに広がっている。そして、スズの後ろには、わたしが歩いてきた道が待ち構えている。

 「スズたちは一緒にいることはできない。やっぱりあれは、良くないことだったと思う。そして、いくらスズたちが一緒に演奏をしないようにしても、その可能性がある限り、それを知ってしまっている限り、人は夢を見てしまう。自分の力では叶うことのない夢を。それは、頑張ることの意味をゼロにしてしまうし、必要のなかった憎しみや絶望も生み出してしまうということ。だから、少しの間だけ、スズはこっちにいるから」

 そうして目の前のスズは、わたしに背を向けて歩き始める。

 少しのあいだスズの背中を見送ってから、わたしも、そうするほかなかったのだけれど、彼女に背を向けて歩き始める。お伽話に出てきそうな、静かで光あふれる平和な森の小径に見えたそれは、実際に歩いてみるとあまりにも暗く、孤独な道だった。見た目には決して攻撃的ではない静かな森は、息を潜めてわたしの背中を睨み続ける。それとも、ここには誰もわたしに構う者なんていないんじゃないか。動物や、植物でさえも。

 一体あとどれくらい、この一人の道を歩いて行かなければいけないのだろう。スズは、ずっと一人でここを歩いて来たのだろうか。手を引いてくれていたお母さんは、どこに行ってしまったのだろう。帰らなきゃ。帰りたい。わたしは泣きそうになる。けれど、一方で何もかもわかっているような気もした。わたしはここで、やるべきことを終えてしまわなければならない。そうしないことには、時計はいつまでも止まったままになってしまう。その使命感だけを頼りに、わたしは森をひたすらに歩く。

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第11章(2)「おかえり」(王 四十七歳)

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