【長編小説】『空色806』第11章(2)「おかえり」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 次に朔が自分の体を実感したのは、またもやサンドラのベッドの中だった。まだ朝陽が昇る前の、深夜とも早朝ともつかない時間。時計を見ると、午前三時だった。

 午前三時。朔にとっては馴染みのある数字だった。昔から、海外旅行に行くと決まって時差ボケを起こす。それも、どの国に行くときもきっかり夜中の三時に目を覚ますのだ。例えその国の時計が日本より七時間遅れていようと、十二時間遅れていようと、問題は午前三時というところにあるのだった。今度もまた、午前三時。ちょっと変わった海外旅行のようなものだと思えば、あくまで自己満足の範囲でなら、少しは納得できる気がした。そして、ここには時計がある。日本の時間の流れ方と同じかどうかはともかく、一日が二十四時間で、一週間は七日で、三十日まである月と三十一日まである月があって、一年は概ね三六五日のようだった。ここでそのような現実的な、見知った事柄に出会う度に、朔はある種の安堵と、同時にこれが完全な夢ではないのだという小さな絶望を同時に胸に感じた。

 森を歩いていたはずのもう一人のスズであるわたしは、今度こそ確実に千本朔に戻っていた。妙な夢を見た。部屋の中は暗く、けれどどういうわけか、真夜中でも部屋の中はある程度見渡せる。ここに光はないはずなのに、やはり光は存在するのだ。完全な闇というのは、この地球には存在しえないのかもしれない。朔の目は、その僅かな光を集めて闇を切り拓く。

 そして、空腹を感じる。

 昨日の夕食はなんだったっけ。スズが戻ってきた喜びと、彼女の精神的喪失との混乱から、まともに食べなかったのかもしれない。それでも、キベの家にいる時でさえ、朔は全くと言っていいほど空腹を感じなかった。ほとんど義務的に食事を済ませていたこの二週間、朔は自分がいったい何を口にして肉体を維持してきたのか、あまり記憶になかった。パン、チーズ、果物。そんなところだろう。ヨーテがまとめて買ってくる日持ちのしそうな食材を、各々が時間の空いた時に口にしていた。人間の肉体というのは、案外丈夫にできている。少なくともその精神よりは。

 小さな空腹感は、やがて大きな声となり、朔に熱量の摂取を求める。こんな時間にごそごそと起きだしてものを口にすることに、それも仮にも居候の身でそんなことをするということに多少の後ろめたさを感じないわけではなかったが、このままでは眠れそうもない。朔はできるだけ音を立てないように、サンドラのものであろう薄手のクリーム色をしたカーディガンを拝借し、一階へ降りた。真夏だというのに、トラリアの朝晩は案外冷える。階段近くのスズの部屋には、王と、少なくとももう一人がスズに付き添っていた。内容までは聞き取れなかったものの、ぼそぼそという呟きが聞こえた気がした。

 一階のキッチンも、随分使い慣れてきた。壁全体が透き通った陶器ような優しい乳白色をしており、その上に上品な青の花模様が散りばめられている。どんな料理を作るにも事欠かないほどの調理器具が揃えられているが、そこにはほとんど無駄なものがない。一度、ヨーテとスズが一緒に市場に買い物に行った際に、持ちきれないほど購入したという、タルト型だけがやたらとあった。レベッカは幸せ者だな、と思う。食器は、食材の色味を引き立たせるためか、ほとんどが白で統一されている。木でできたナイフやフォークのほかに、箸まで存在した。それらはなぜか、全て柔らかかった。物質的な意味ではなく、食べものを優しく包み、ただ純粋にそれらを口へと運ぶだけに存在する控えめさが、これらの道具にはあった。

 朔がここに来た時、ヨーテがことさら得意気に見せてくれた硝子でできたアンティークの調味料入れは、もう丸二週間のあいだほとんど開けられていない。調味料を使い、火を必要とする料理をするというのは、心と時間に余裕のあるときにしかできないのだ。

 ひとまず朔は、キッチンにあるものを点検した。誰かが五センチほどスライスしたあとのライ麦パンと、ベーグルが十個。ラスクを薄くしたようなかたいクラッカーが何十枚か。冷蔵庫には、大きなチーズの塊と、牛乳と、卵と、こけもものジャム。それにりんごとオレンジがとにかくたくさんテーブルに置かれている。

 「サク。起きてたの」

 クラッカーにチーズでも載せて齧ろうか、それともりんごにしようか。コップに水を汲みながら考えていた時、突然背後からかけられた声に、朔はその場で飛び跳ねた。

 「ごめんなさい、驚かすつもりはなかったの。お父様と一緒にスズのことを見ていたんだけど、何だかお腹が空いてきちゃって。薄情よね、あたし」

 キッチンの入口に、レベッカが立っていた。ひどく疲れた様子で、無理に口角を上げようとしているのが痛々しかった。

 「わたしも今日は、なぜだかこんな時間に目が覚めてしまって。昨日あまり食べずに寝てしまったものだから。あ、レベッカはまだ寝てなかったね、ごめんね」

 「違うの。あたしは、スズが心配で、お父様だってあんな様子だし、つまり、あたしの勝手で起きているだけで……」

 「ね、レベッカ」
 この暗い空気を断ち切るために、朔は秘密の、とびきりいいことを思いついたのだという表情をしてみせた。

 「パンケーキを焼こうよ。こーんなに分厚いやつ」そう言って朔は、親指と人差し指を大きく開いて見せた。

 レベッカは一瞬、呆気に取られた顔をしていたが、今度は本当に微笑んだ。
 「トラリアのパンケーキのレシピを知ってる?」

 「それはわたしが知っているパンケーキとは違うのかな? まあるくて、表面がつるつるとしてるの」

 「あたしが教えてあげるね。いつも料理はヨーテとスズなんだもの。あたしだってちゃんとできるんだから」
 レベッカは戸棚から小麦粉を取り出した。

 「えっと、冷蔵庫から牛乳と卵とバターを取ってくれない? クリームがあればよかったんだけれど。あとは砂糖と、うーん、これで全部かな」彼女は材料をひとつずつ確認するみたいに、親指、人差し指を順番に折ってゆく。

 「はい、牛乳と、卵と、ボウルと泡立て器。フライパンは温める?」

 「ありがと。フライパンは使わないよ。オーブンを温めて?」

 レベッカは、慣れない手つきで生地を混ぜ合わせていた。左手でしっかりとボウルを掴み、右手で生地をかき混ぜる。こんなに何気ない行為でさえ、左指のない朔がやろうとするとなかなかうまくはいかない。

 「オーブンの中で、バターを溶かして」

 「バターを溶かすの? フライパンに入れるでもなく、出来上がったパンケーキに乗せるでもなく?」

 「いいからいいから」

 レベッカはパンケーキの生地を混ぜることに夢中になっていた。この子のこんなに光のある眼差しを目にするのは、いつぶりだろう。
 すっかり溶けたバターを生地に混ぜ込み、オーブンの天板にそれを流しこむ。

 「よし。あとはこのまま三十分くらい待てばいいの。サクのお腹はそれまで待てる?」

 「ふふ、あなたこそ」
 そうして、朔は牛乳を温め、そこにココアの粉と砂糖を入れて、二人分のココアを作った。最後にチョコレートをひとかけら入れる仕上げは、スズが教えてくれてから朔の定番になっていた。

 それからパンケーキが焼けるまでのあいだ、二人は押し黙っていた。口を開けば、憂鬱と不安の混ざった、空を掴むような慰めだけが口をついて溢れ出しそうだった。

 そのうちに、レベッカはうつらうつらとしだした。無理もない。危うく二度も妹を失いかけたうえに、かろうじて戻ってきたスズはほとんど抜け殻のような状態になり、憔悴しきった父親にも気を遣いながら、実は一番疲弊しているのはこの大人びた十三歳の少女なのかもしれなかった。子どもというのは、大人が思うほど子どもではない。自己の中に広がる言葉にできない気持ちや、大人たちの間に漂う空気を敏感に感じ取りながら、あくまで子どもの領域を出てしまわないように、庇護の対象であり続けられるように、心の何処かでそれらしくふるまっているものなのかもしれない。だんだんと年齢を重ねていくがゆえに、だんだんと世界の成り立ちを知り、気持ちの表現の仕方を知り、気持ちの隠し方を知る。そしてうまく行けば知らないあいだに「オトナ」になっている。

 オーブンが、心なしか控えめに鳴る。今日のそれは、パンケーキが焼きあがる合図だ。オーブンから出てきたばかりのパンケーキは、まだ夜明け前の薄暗いキッチンの中で、黄金色にきらきらと輝いていた。朔の知っているつるりとした表面ではなく、でこぼことした、まだらに焦げ目のついたパンケーキだった。端の方は、こんがりと内側に反るように焼けていて、きっと口に含むと、バターと砂糖の溶け合った濃厚な味がじゅわりと口いっぱいに広がるのだろう。ぐうう。案の定、お腹が鳴る。それでも不思議と、目覚めた時のような、砂漠に似た飢餓感は薄まっていた。それはココアのおかげであったかもしれないし、目の前ですやすやと眠る少女のおかげかもしれなかった。

 朔は、パンケーキを天板ごとそっと机の隅に置く。明日、いや今日の朝になれば、間違いなくこのできたての特別な美味しさは半分以下に損なわれてしまうだろう。けれど、甘く優しい香りが広がるキッチンで、緊張の糸がすっとほどけた瞬間に訪れた少女の平和な眠りを、朔は壊すことができなかった。朝陽が昇ってから、レベッカと一緒に食べるほうがきっと美味しい。

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第11章(3)「おかえり」(王 四十七歳)

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