【長編小説】『空色806』第11章(3)「おかえり」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 キッチンに朝陽が射し込む。城の東側に位置するキッチンは、城の中で一番に朝陽が浴びられる贅沢な場所なのだ。夜明け前にここにいるものだけが感ずることのできる、肌をほんのり温める光。誰もが平等に享受することのできる数少ないものの中で、朝のやわらかなお日さまの光は間違いなく一番すてきなものだ、とわたしは思う。

 朔は今日、二度目の目覚めを迎える。夢を見たのだ。スズが二人いた夢。森の道を歩く夢。さみしい夢。いま目の前に冷めたパンケーキがあるということは、レベッカとの時間は現実で起こったものと思って間違いなさそうだった。あれから何時間経ったのだろう。少し肌寒い。サンドラのカーディガンをレベッカにかけてやっていたため、朔の腕は冷えきっていた。何か温かいものが飲みたい。そうだ、ココア。けれど、コップにわずかに残ったココアも、当然のことながらもう冷めてしまっていた。スズは、混沌の意識の中でわたしに何を伝えたかったのだろう。それとも、わたしの中のなにかが、スズの緊急事態に反応しているだけなのかしら。いや、考えるのはよそう。きっとそれも、答えではない。その時が来るまで、わたしは待つしかないのだ。せめてもの気休めとして、城の中を掃除しながら。

 「あら、おはようございます。お二人してどうされたんですか」
 後ろから聞き慣れた声がして、足音がキッチンに入ってくる。

 「おはよう、ヨーテ。何だかお腹が空いて目が覚めちゃって。キッチンに降りてきたら、レベッカも降りてきたものだから、レベッカ先生のご指導のもと、パンケーキを焼いたの。もっとも先生は、オーブンが仕事をしている間に夢の中に旅立ってしまったけれど。それともこれほどぐっすり眠っているということは、夢さえも見ていないかもしれないね」

 朔は、まだ規則的に寝息を立てている少女を見やりながら、今度こそ健康的な空腹感を覚えた。

 「そうでしたか。それはありがとうございます。この方はもの分かりが良すぎるのです。おてんばなところもあるけれど、きっといつも、ご自身の中に渦巻く感情を溜め込みながら、それでも何とか折り合いをつけていらっしゃる」

 ヨーテは、母親でもない、祖母でもない、けれど全く赤の他人というわけでもない程よい距離感で、いつも姉妹と接していた。

 「温かい珈琲を淹れましょう。お二人が作ってくださったパンケーキにたっぷりとこけもものジャムを塗って、朝ごはんです。今度買い物に行く時には、パンケーキに添えるクリームも買いますからね。そうしたら、スズ様も一緒にもう一度パンケーキを焼きましょう」

 ヨーテはそれだけを一息に言い切って、朔に背を向けて湯を沸かし始める。あとは彼女が珈琲の豆を挽くかりかりかりという音だけが響く。ヨーテとレベッカと食べる冷めたパンケーキと、温かい珈琲の組み合わせは、悪くなかった。全然、悪くなかった。

 スズがいないあいだの二週間で、城の中はすっかり埃とゴミだらけになっていた。一国の王女が行方不明になっても、城の者がほとんど彼女を探すためだけに日々を過ごしていたとしても、人の住むところは汚れる。それは、廃墟とはまた違った汚れ方で、食べたもののゴミだとか、髪の毛だとか、泥のついた足跡だとか、そういうものだ。肉体を抱えて生きているというのは、こういうことなんだなと朔は改めて感じた。ほとんど放心状態の王が、毎日ひとつだけ、焼くことも茹でることもせずに食べていた卵の殻たちがきっかり十四個分、キッチンの緑色のバケツに入ったままになっていた。

 「生ごみは黄色のバケツなのに」

 そんな些細なことからも、王がいかに心ここにあらずの状態で二週間を過ごしていたかがうかがえてしまう。朔は熱いものが頬を伝うのを感じながら、それでも考えまいとしてひたすら体を動かし続けた。

 わたしは部外者。スズのことでもっとみんなは心を痛めているんだ。わたしが泣く資格なんて、あるもんか。

 時々、スズの部屋にいることに疲れてしまったレベッカが手伝ってくれることもあった。一方で王は、もう片時もスズの手を離そうとしないのだった。

 「掃除っていいね。ちゃんと物事が前に進んでいる感じがする」

 誰に言うでもなく呟くレベッカに、朔は下唇を強く噛み締めながら、こくりとうなずくことしかできなかった。ここに来て少し、感情の振れ幅が大きくなったのだろうか。

 スズは、相変わらず眠り続けていた。とても幸福そうに。ほんの少しの間目覚める時だけ、その度に王をぬか喜びさせ、そしてまた瞼を閉じてしまうのだった。

 そして三日後の朝早くに、スズは本当の意味で目覚める。動物としての一応の機能を兼ね備えた肉体以外、何もかも失ってしまったかのような状態を経たあとで。

 「おはよう、パパ」スズは、今度こそしっかりと父親の目を見てそう言った。らしい。

 スズがほんとうの意味で目を覚ました瞬間に彼女の部屋にいたのは、王とレベッカとヨーテだけだった。スズは、少なくともその三人と話している間に関して言えば、以前のスズと何ら変わりないように見えた。言葉も話したし、瞳に生きているもの特有の光が宿り、記憶もきちんとあった。二週間、どこにいたのか、誰といたのか、どうやって帰ってきたのか、もちろん王は問うた。けれど、いなくなった二週間のことについてだけは、「覚えてない」と首を振るのだった。とても残念そうに。けれど、その失くした記憶がとても大切なものであったことを知っているみたいに。

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第11章(4)「おかえり」(王 四十七歳)

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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