【長編小説】『空色806』第11章(4)「おかえり」(王 四十七歳)

空色806

▼概要・目次はこちらをご覧ください▼
【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 王について。二週と三日間、義務としての仕事を除いて、簡単な食事と排泄とわずかな睡眠以外の一切の「人間的生活の営み」をしてこなかった王は、つまり、着替えることも風呂に入ることも一度もしなかった王は、ほとんど王としての威厳を損なっていた。しかも、レベッカとヨーテが遠回しに、彼から放たれる異臭に言及するまでは、そんなことには思いも至らなかったようだった。

 彼はまず、身につけているものを全て自らの手で洗濯し、大きな風呂に湯を張り、脂で奇妙に艶がかった髪と、汗の臭いがこびりついた体を丁寧に洗った。ついでに髭も全部剃ってしまった。実を言うと、王にとってすっかり髭を剃ってしまうのは、サンドラが去ったあの日以来だった。けれども、そうしないわけにはいかなかった。彼は、こういう時に髭をすっかり剃ることで、何かに区切りをつけようとする類の人間だった。

 落ち込んだ気持ちも、後悔も、心配も、悪いものを垢と一緒に全部洗い流してしまったみたいにすっかり清潔になり、新しい服を身に纏った王は、手始めに朔の掃除を手伝おうとした。まるで居候の遠縁の子が、引き取られた先で少しでも役に立とうと家事手伝いを申し出るように。そうすることで、自己の存在意義を確かめるように。

 「王様、少しお休みになってください。ろくに眠っておられないでしょう」

 朔はこの三日間でやっと地下と一階の掃除を終え、二階へ続く螺旋階段を拭いているところだった。

 「いや、いいんだ。手伝わせてくれ」

 「せっかくお風呂に入られたのに、また汚れてしまいます。それに、王様にしかできないお仕事もたくさんあるんですから」
 朔は心からの願いで、そう言った。

 「いや、頼む。今は体を動かしていたいんだ。たった二週間と三日、それだけで私の体にはあんなにも垢が溜まっていた。スズがあんなことになっていたというのに、私の体は垢を出し続けていた。いや、出し続けていてくれたんだ、私がもう一度スズに会う時に、ちゃんと生きてられるように。そんなことに、私は風呂でどんどん流れ出る垢を見てやっと気付いたんだよ。この階段の足跡だって、誰かがあの子のために外を走り回って、泥を落とすことも忘れて城を駆けずり回って付いたものだ。そういう汚れを、私は大切にしたいんだ。感謝しながら、それでもきれいに落としてしまいたいんだ。私たちが明日からもきちんと生きていくために。もう、これ以上この国は死んではいけない」

 最後の言葉は、王の喉からやっとのことで絞り出されたものだった。王が階段を拭くそばから、ぼたぼたと階段が濡れる。王は掃除に慣れていないため、雑巾の絞り加減を知らないのだ。

 朔はそう結論付けることにした。そうでも思わないと、王の両目から止めどなく流れ出る優しさに、朔の両目が耐えられそうになかった。きゅうと痛む心臓を感じながら、なるべく上を向いて拭き続けた。二人の間に、それ以上の会話はなかった。ごめんなさい、ごめんなさい。朔は、スズがいない間に王が自分を疑っているのではないかとほんの少しでも感じてしまったことを、心から恥じた。彼ほど無意識下においてまで裏のない人間は、これまでの人生で出会ったことがなかったから。わたしはそんなふうに言い訳じみたことを考えながら、目の前の泥を落とすことに集中しようとした。わたし自身にこびりついている泥も落としてしまえたらいいのに。

 普段でも食卓に全員が一度に揃うことは稀だが、今日だけは城の仕事に従事する者全員で昼食を摂ることになった。鳥一族も、ルルの仲間たちも、みんなで。いつものキッチンにはとても入りきらないため、城の入口から見て右奥にある大きな会議室が今日の食堂だ。会議室、遊技場、そして空の倉庫。一階にある部屋のうち、一番よく出入りするのは間違いなくキッチンだったけれど、夕食時と、二人の王女と遊ぶ時には、遊技場を使うこともあった。朔は残りの二つの部屋についてをあまり知らなかった。それでも、ひと月に一度ほど掃き掃除をする際には、きちんと使われた跡がある。朔の知らない間に、ここに城の者、村の人が集まって、国の運営について話しあったりするのだろう。

 掃除をする時、会議室はいつもがらんとした、何もない部屋だった。遊技場の隣にある空き倉庫と同じように。ただひとつ、いやふたつ、古い木で作られた椅子が置いてあった。その二脚の椅子は、もう長いこと使われていないのだろう、支えの銅が錆びつき、そこに腰掛けるはずの、赤い布で覆われて盛り上がった部分も、黒ずんで埃っぽくなっていた。座高よりも高くそびえる背もたれと、それらを床から少し高い位置に崇めるための数十センチの土台だけが、その二脚の椅子に王族の威厳を辛うじて残していた。背もたれには銅で三角形が描かれ、その中に例の文様が描かれていた。やけに太い線でバツを書いたような、屋根のある家の形をした五角形のてっぺんを四つつなぎあわせたみたいな記号。その記号は城の所々に見かけられたが、銅で作られたそれは、朔を少しだけ怯えさせた。それに、きっとこの椅子は王妃が去った日からもう使われていない。直感からそう確信していたため、掃除をする時にもあえてその椅子の周りだけは避けていた。ただでさえ、朔は自分が王妃の部屋を使うことで、彼女の名残をこの城から奪い取っているような罪悪感に似た感情を覚えていた。

 あるいは、王にとってはもう、彼女の名残でさえつらい思い出でしかないのだろうか。会議室のつるつるとした格子状の床に人々がじかに座り、同じ目線で話をする光景を目に浮かべる。時にはヨーテの作った手作りの菓子を片手に、茶話会としての楽しい集まりが行われるのかもしれない。天災などの国の緊急時には、村の主要人物たちが集まり、夜通し交代で見回りなんかをするのかもしれない。座敷がなくて痛くないのかしらと思ったりもした。なぜだかその時だけは、王もルカも村の人々も、みなどこかの時代劇で見たちょんまげ姿で想像してしまうのだった。

 だから朔はとても驚いた。

 会議室の格子状の床が地響きを立てながら横にスライドし、その下からひとつの机に五十人は収めてしまえそうな長い机が六脚と、それぞれの机の長い方の辺に向かい合うようして、椅子が無数にも思えるほどに出てきた時は。

▼続きを読む▼
第11章(5)「おかえり」(王 四十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。