【長編小説】『空色806』第11章(5)「おかえり」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 王と朔が階段の拭き掃除をし、ルルたちが白樺の木を806番の空色にすっかり塗ってしまう間に、ヨーテ、レベッカ、スズ、オーイシ、ルカが総出で昼食の支度をしていた。

 掃除を終えた朔と王が会議室に入ると、もうすでに腹を空かせた何人かのペンキ塗り職人たちは、フライングをしていた。空いた席にはまだ何も並んでおらず、部屋の入口付近には、冗談みたいに大きな鍋や、うず高く積み上げられた食器や、料理の数々が並んでいた。今日の“給食当番”たちが、焼きたてのパンを次々に運んでくる。職人たちは、銘々が好きに料理を取り、好きな場所に陣取って宴会を始めていた。

 「よぉ、王様! せっかく俺たちみたいにワイルドな風貌になったかと思ったら、えらくこざっぱりしちまってよ! まぁ、最近のあんたはどちらかと言うと少しばかり陰気だったからな」

 「城のメシは確かにうまい! うまいが、俺たちの普段食ってるもんと、案外変わんねえのな」

 「おい、このチーズはちょっと悪くなってるんじゃねえか。おいらみたく頑丈ならいいけどよ、腹の具合が悪いならやめておくといいや」

 「おい、王様に向かってその口の聞き方は良くない。それに、今日はみんな疲れている中、買い物や料理をしてくれたんだ。お前たちは黙ってありがたくいただくといい。片付けは手伝うんだぞ」

 新しい鍋をキッチンから運ぶ途中のルルが、職人たちを窘める。鍋のもう片方の持ち手を持つルカも、ルルに参戦する。

 「よい。よいのだ。今日は何もかもが許される。今日も、だ。さあ、いただくとしよう。厨房のみなも呼んでおいで。彼らも一緒に食卓を囲もう」
 王はそう言ったそばからくるりと踵を返し、自らキッチンへ向かった。

 朔は、自分の皿を取り、料理を盛り付けていく。まずはサーモンとじゃがいものたっぷり入った温かなクリームスープと、焼きたてのふうわりとしたイギリスパン。今になって、朔は朝ごはんを食べていなかったことを思い出す。ぐうう、とお腹が鳴る。温かいごはん。いくらでも食べられそうな気がした。けれど、ほんの少し食べただけで、もうお腹がいっぱいになってしまう気がして。それがなんだか怖いような泣きたいような。何か大切なことを置き去りにしたまま、自分だけがこの温かい平和の沼にずぶずぶと沈んでいくような。

 食べよう。おいしいものを食べている間は、忘れられる。

 「あたしは絶対に、ひと口めはブルーベリーのパイが良かったのに」

 「まぁまぁレベッカ様。もう小一時間もすれば、パイは嫌でも焼き上がりますよ」

 「おねえちゃん、紫色になりたいなら、あの紫キャベツのキッシュを食べたらどう?」

 「スズ、あんたわかってない。いい? オムレツとパンケーキは同じ色だけど、ぜんぜん違うでしょ? そういうことなんだから」
 デザート以外の全ての料理の支度をようやく終えた給仕係たちが、会議室に引き上げてきた。中でもとり分けレベッカは嬉しそうだった。

 「スズはオムレツもパンケーキもどっちも好きだよ。でも、お姉ちゃんの作ったオムレツと、ヨーテの作ったオムレツがぜんぜん違うってことは、わかる」

 「うるさいなあ。胃に入っちゃえば、同じことでしょ」

 「よおし、私は今日一日で、この二週間と三日のあいだに食べ損ねた美味しい料理と、幸せな気持ちを全部味わうからな」

 「せっかく少し余裕ができたお父様の服も、また明日から窮屈な思いをしなくちゃならないのね。気の毒」

 レベッカはわざと眉を下げて見せ、スズと二人でくすくすと笑いあった。
 この姉妹がこんなふうに互いの目を見ながら、いたずらっ子のように笑うと、その場にいる全員が幸せな気持ちになるのだった。

 せめてもの礼儀として、彼ら全員が食卓に着くのを見届けてから、朔はスープを口に入れる。味よりも先に、胃がじんわりと温まる心地よさにうっとりとする。ほんとうのおいしさは、からだが知っている。似たようなことを自分の母親が言っていた気がする。朔は、ここに来てほとんど初めて自分の母の存在をくっきりと思い出したような気がした。

  おかあさんさみしいあいたいどこにいるのだいじょうぶごめんなさい。

 自分のものではないようなわたしの内側に響く声に、視界が滲む。

 「温かい料理というのはいいなあ。なあ、スズよ」
 朔の席から数えて三つ隣の向かい側に、二人の娘に挟まれる格好で王は座っていた。ほとんど泣きそうになりながら、皿の上に山のように盛られた料理を片端から腹に収め、とにかくスズに話しかけていた。

 レベッカは結局、かぼちゃのポタージュをまず手始めに口にしたらしかった。オレンジ色に肌を染めた彼女は、見た目も表情も明るかった。

 「そうだね。あ、パパの口からココの実が飛んできた、きたない。でも、全然久しぶりな感じがしないよ。やっぱりヨーテのオムレツは最高だね。お姉ちゃんの作ってくれたにんじんのパンケーキも、とびきりおいしいよ」そう言ってスズは、ちゃんとレベッカの作ったオムレツも食べていた。

 「でしょ。あ、お父様、それあたしのパンケーキ」自信作なんだからね、取ってきてあげるよ、と気遣いからか席を立とうとする姉。

 「あ、すまない。レベッカ、ほんとうにすまなかったなあ。疲れたろう。ほら、お父さんのヘーゼルナッツをやろう」

 「お父様、あたしは生のヘーゼルナッツを食べるとお腹をこわすの。いつになったら覚えてくれるの?」
 そんな姉と父のやり取りを、スズはにっこり微笑みながら見ているのだった。普段あまり食べない彼女は、今日ばかりはよく食べた。特に、姉の作ったにんじんのパンケーキ。

 「王様の食欲が戻ってよかったわ。あの人はきっと、例えば髭だったり、食べるものだったりで大切な瞬間を確かめているのだわねえ」

 朔の隣で食事をしていたヨーテが、朔にささやく。彼女もまた、よく食べていた。自分で作ったものを美味しそうに食べられる人を、朔は羨ましく思う。自分で作った料理、自分が考えた商品、自分が就いている職業、そういったものをいつもあまり好きになれないでいた。

 「王様は優しい方です。ほんの少しそばにいただけだけれど、よくわかります。一国の王として、強い決断をされるけれど、時に自分を傷つけてしまう。あの方にレベッカとスズがいて、本当によかった」

 「あの人が今日食べたもの、実を言うとスズ様が生まれた朝とほとんど同じものなのよ。ココの実入りのバゲットが三本、ハムエッグ、にんじんのパンケーキが五枚、ヤギ乳ヨーグルトが二リットル、雲タラのムニエル、生のヘーゼルナッツがちょうど二十六粒。こんなにもたくさんの種類がある中から、不思議ね。あの時は、王様はとてもおろおろしていた。新しい命の誕生を待ちわびる気持ちと、サンドラ様を気遣う気持ちと、ここぞという時に無力な自分へのやるせなさと。若くして王位に就いてからは、いつも王として、あの人は立派に国を盛り立てていたから。今日はあの日よりいくらか愉快みたいだから、まだまだデザートもたっぷり食べるつもりでしょうけれど」

 八年という歳月は、王という人を大いに変えてしまい、また全く変えなかった。

 そして、ヨーテは見た目によらず、とても鋭い。よく見てますね、朔は半ば感心しながら、半ば恐ろしくなりながら、思わず口に出す。スズが生まれる前の年に来たというこの人は、何者なのだろう。ふくよかな調理係の隣で、わたしはおかわりした固いパンをスープにひたす。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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