【長編小説】『空色806』第12章(1)「鳥カゴの中で罪を犯す」(キベ 七十四歳)

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)
キベは、スズが見つかった三日前とは全然違った様子だった。
「ほれ、珈琲だ。ホイップとメープルは、いつもの倍入れたからな」
「これは自信作だぞ。クラウドベリーってんだ。あの太陽みたいな色をしたベリーがあるだろう。あれはこの時期にしか採れないんだ。ただし酸っぱいから、こんなふうにジャムにして、薄いパンケーキにくるんで食うのさ」
「ピアノを壊しちまわなくてよかったよ。やっぱり、人生何があるかわからんからな。ものは捨てないほうがいい」
やたらと興奮気味なキベに圧されて、朔はほとんど飲むようにしてパンケーキを流しこむ。このパンケーキは、レベッカの作る分厚いそれと全然違った。クレープみたいだ。中学生の頃、学校の帰りに友達とよく食べた、安っぽいホイップとチョコレートにまみれたクレープを思い出す。先生に見つかりやしないかとびくびくしながら友達と頬張るクレープは、とびきり美味しかった。あの頃は、それが朔にとって悪いことだったし、校則という鳥カゴの中で犯すその背徳感が心地よかった。
二週間と三日ぶりに触れるピアノのキーボードは、まるで初めて会ったみたいに朔を冷たくあしらった。
鈍ってるな。
キベはそう告げ、けれど相変わらず上機嫌だった。
今日、ルカは来ていなかった。きっと、二週間のうちに溜まりに溜まった郵便物がまだ捌ききれていないのだろう。
二時間たっぷりの練習で、朔の右手と左手はすっかりくたびれた。右手の方は指の隙間が、左手は腕のあたりが痛む。全然違う使い方をしているのだから、無理もない。明日の掃除に響かないといいけれど。
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【長編小説】『空色806』第13章(1)「とにかくひと揃いの右手と左手がある」(朔 二十七歳)
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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