【長編小説】『空色806』第13章(2)「とにかくひと揃いの右手と左手がある」(朔 二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 「なつかしいね」スズは言う。スズが優しい目を向けた瞬間、箱が大きな音を立てて崩れる。

 恐ろしさは不思議となかった。

 「しずかにやらなきゃ。みんながめをさましちゃう」わたしは、幼い自分の声を聞きながら、もう自分が何をすべきかを承知していた。目の前に姿を現したのは、小さなピアノ。もう何年も調律などされていないであろう、古い古いピアノ。低いソの音からはじまって、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドを二周して、最後にミで終わるピアノ。ホープのためにキベが作り、結局国民の前で披露されることなく封印されてしまった。こんなところにいた。

 この部屋は、あの頃たくさんの楽器でいっぱいだった。トラリアに音楽が満ちていた頃。あの日から、楽器たちは隣の塔の地下に移された。残されたのは、もう戻ることのない少女が少しの間だけ音を奏でたこのピアノだけ。

 「これはキベのへやにあるものとはちがうけれど、ホープがあのときひいたピアノだよ。なつかしいなあ」彼女は自分の両手をそっと鍵盤におろす。そして、少しだけ左にずれたかと思うと、朔をピアノの前に座らせた。さっきまで見下ろしていた少女の顔が、すぐそばに現れる。

 「キベは、ホープがおおきくなったときのためにとくべつなピアノをつくってくれていたんだって。みられないまま、ホープはちがうところへいかなくちゃならなくなった。でも、ふたりでまたトラリアにおんがくをとりもどすんだよ。おねがい、やくそくだよ。あの子がかえってきたら、ふたりでパパにおねがいしてね」

 「あの子? あなたはだれ? スズは? わたしは、ホープなの?」

 「じかんがないの。さあ、もうひけるでしょう。れんしゅうのせいかがこんなかたちになるなんて、キベはおこるかもしれないけれど」

 少女は朔の右手を取る。

 「わたしは、ひだりてのぶぶんをひくから。うたはあの子ほどうまくはないけれど」

 二人の手は動き出す。少女は自身の右手を朔の左手とつなぎ、体を通して次のメロディを教えてくれた。時間がない、と言う少女の言葉とは裏腹に、朔は時間が流れる感覚を失っていた。

 かわいたトラリア
 はるはあめのきせつ
 あめはいきものにいのちをあたえ
 あめはそしていのちをうばう

 かわいたトラリア
 あらしはつよくうるおい
 おしろとかえでがいのちをまもる
 ひとはそしていのちをはぐくむ

 こんじきのきには
 いのちがあつまる
 ひとびとのおそれと
 ひとびとのけいあいと
 ぜんぶをひきうけて

 指は自然と動いた。キベの家で練習していたピアノとは違っていたけれど、朔はそのメロディを確かに知っていた。そして、彼女の右手はその動きを知っていた。

 少女が歌う間、朔は夢中で弾いていた。そして歌が終わると、部屋の中は再び薄暗い静けさに包まれる。
 静けさは、新たな音を生む。耳からの情報を処理する必要のなくなった脳は、それ自身で音を奏で始める。朔の頭の中は、突然洪水にでもあったかのように、静かにけたたましく鳴り響く。数えきれない感情の破片が、どっと自分の中に流れ込んでくるのを感じた。

 ひどく眠い。とどまることを知らない内側の情報は、まるで何人もの走馬灯を見ているかのようだった。そして、それらは段々と焦点を失い、遠のき、幕を降ろす。何かが終わり、抑えこまれていた何かが始まった。わたしたちは、ひとまずのところ二人で大きな仕事を遂げたのだ。

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第14章(1)「歴史の短針を進めるべき時が来た」

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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